2008-01-01から1年間の記事一覧

ロザリンド・クラウス----批評の方法(12)

(つづき) なぜメディウムにこだわることがアートをキッチュから防衛することになるのか。グリーンバーグの『アヴァンギャルドとキッチュ』(1935)はそのことについての論争的な分析である。『アヴァンギャルドとキッチュ』自体もまた大いに問題含みの、か…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(11)

(つづき) 『FORMLESS A User`s Guide』の「Entropy」という項目の中で、ロザリンド・クラウスはグリーンバーグ批判のための主な論拠をエントロピー(熱力学の第二法則)とシミュラクルという二つの概念の間の結びつきに求めている。一体、エントロピーとシ…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(10)

ぐうたらブロガーは少し間を空けてしまったので話を整理する。整理しつつ、今後のクラウス読解の導入部とする。(註;これは日記のようでもありますが、かならずしも日記ではありません。初めてここを訪れた方はブログ開始一日目から通してお読みください。…

私用で一週間ほど留守にしていました。ブログの更新をしなくっちゃ。 すぐ明日にでも、今日にでもというわけには行きませんが、近々更新します。お見限りなく。

「現代アート基礎演習」

このブログは私の年来の友人ばかりではなく、どうやらまったく面識のない方も覗いて下さっている(らしい)。最近では仕事で知り合った方、また、私がデッサンを教えに行っている学校の学生さんも覗いて下さっている。(いいかげん、退屈されないように工夫…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(間奏)

(つづき) 写真という物質それ自体はエントロピーの法則(物質的因果性における不可逆性)に従う。写真は色褪せたり、丸められたり、燃やされたりすることができる。だが、そこに写っている対象はそうではない。写真に写った限りでの写真の対象は、光学的写…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(9)7/12(改)

一日一万ヒットを目指すのだ。この文体で、この内容で。(つづき) 一体何が作品を作品たらしめるのか。終始記号論として、哲学として構想されたパースの論説にとってこれはそもそも問題とはならない、だが、美術批評家クラウスにとっては問題となる。たとえ…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(8)

思い起こせば、クリフォードによる批判を読解することから始めて予定では3回くらいで終了するはずだった。 (つづき) 問題となっているのは「おのずとやってくるもの」である。そもそもブルトンによる自動書記(オートマティスム)とは夢や無意識を対象と…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(7)

なぜ「写真」なのか、ロザリンド・クラウスは次のように書いている。 「シュルレアリスムの写真は、すべての写真が賦与されている現実との特別な結びつきを巧みに利用している。というのも写真は、現実的なものから取られた刻印もしくは転写だからである。そ…

週イチの更新をお約束予告しておきながら、更新を怠っておりました『すもも画報』ですが、近々再開いたします。 「読書」カテゴリーでの仕事は、一応*1、ただの要約や感想文ではなく批判的・脱構築的な読解を目的としたものですので、引用されたり言及された…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(6)

(つづき) 『シュルレアリスムの写真的条件』には結論として次のように書かれている。 「1920年代のヨーロッパにおいては至るところで、現実に付加された代補的な何ものかが経験されていた。それが代補的な器具によって生み出される写真において一貫して体…

柳家小三治一門会

『柳家小三治一門会』を見た。出演は柳家ろべえ(「家ほめ」)、柳亭燕路(「寝床」)、柳家福治(「墓見」)、柳家小三治(「厩火事」)。中学生の頃、いっとき私は落語にはまっていた。ほとんどのラジオ放送をエアチェックし、テレビで寄席が放送される時…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(5)

(つづき) ロザリンド・クラウスによればシュルレアリスムの美学を定義し、その全生産を統合するキーコンセプトとは、「エクリチュールへと変容させられた現前性」である。「エクリチュールへと変容させられた現前性」とは、「おのずと」でありながら「再現…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(4)

(つづき) 『シュルレアリスムの写真的条件』のなかでロザリンド・クラウスがW・ベンヤミンに言及する数は決して多くない。*1わずかな引用と言及において、クラウスがベンヤミンのシュルレアリスム論を充分に汲み、議論の俎上に載せているとは言いがたく、二…

ロザリンド・クラウス--批評の方法(3)

(つづき) ブルトンから始まるシュルレアリスムの問題ないし「矛盾」は、「現前性」と「エクリチュール」に与えられた価値の相違に起因するような、安定した価値判断のヒエラルキーの不在という点にあるのではない。*1むしろ、ブルトンの矛盾とは、オートマ…

ロザリンド・クラウス--批評の方法2

(つづき) 『シュルレアリスムの写真的条件』から抜き出した次の箇所は、クラウスによるシュルレアリスムの定義を要約してくれる。 「もし我々がシュルレアリスムの美学を一般化しなければならないとすれば、《痙攣的な美》という概念が、その核心となるだろ…

ロザリンド・クラウス--批評の方法

『オリジナリティと反復』*1は、1973年から1983年の10年間にわたって書かれた美術批評家ロザリンド・クラウス(1940〜)の批評集である。その問題意識は明確であって、彼女は「起源」や「(作者)主体」、「天才」を前提とする「歴史主義的」批評による価値…

パレルゴン(最終回)

(つづき) 争点とされている件の絵画において、ゴッホの描いた靴は対になっていない。それは「一足」をなしておらず、両方とも「左足に見える」。つま先の形態や甲のヴォリュームに注目すると、二つの靴は型も違うもののようでさえある。デリダがあえてこの…

パレルゴン(21)

(つづき) 作品において表象された靴が有用性を奪われているということ、その理由が絵画であることにおいてであろうと使用のシーニュが不在であることにおいてであろうと、実際的な使用からは切断されているということ、そうした一連の囲い込み(「立てるこ…

1000アクセス突破御礼

1000アクセスを記録したら、一度読んで下さっている皆様に御礼を言いたいと思っておりました。 ありがとうございます。ほんとうに、ありがとうございます。 一度アクセスゼロの日があってね、ほんっと、そんときばかりはやめようかと思ったんすけど、がんば…

パレルゴン(20)

(つづき) ハイデガーによれば、作品は一つの道具がなんであるかを図解するためには役に立たない。作品においては個々の存在するものの再現が問題なのではなく、様々な物の一般的な本質の再現が問題なのである。作品においてのみ、形作られた質料ではない「…

パレルゴン(19)

(つづき) 「あるがまま」とは何か。先に三つの思索様式を斥けたハイデガーは、そうした後、「あるがまま」を思索することの一つの事例を自ら示す。どのようにして「あるがまま」を目指して思索するか、「モノ」は難しいから道具から考えようというのが、ハ…

パレルゴン(18)

(つづき) モノとは何か、その答えを明らかにするために、ハイデガーはモノを省察する際に妨げとなる三つの「思索様式」を批判し、これを斥ける。 その一つめは、物の把握の仕方を物そのものの構造へと転用することである。この「思索様式」においては、そ…

パレルゴン(17)

(つづき) 何はともあれ、まずは『芸術作品の根源』を読むことから始めねばならない。『返却』〔もろもろの復元〕を読むにあたり、デリダの語っている部分と彼が引用している部分との区別さえつかないような‘読解’に陥る危険を回避するためである。そしてま…

KENJIRO OKAZAKI .COM

岡崎乾二郎のHPができたとの知らせを受けました。 コンテンツはまだ増えるそうです。 こちら → http://kenjirookazaki.com/(当ブログのブックマークにも登録してあります。) 美術では映画や小説、マンガと違って、住む地域によってはなかなか作品を見る機会…

パレルゴン(16)

(つづき) 『返却』〔もろもろの復元〕は、ハイデガー(1889 -1976)による論考『芸術作品の根源』を論じたものである。『芸術作品の根源』はカントの『判断力批判』に対する批判的言及を含むものであり、ハイデガーは美学からの技術の締め出し、真理の締め…

『フリータイム』(3)

(つづき) 一般に、人々が互いを記述しようとする契機とは必ずしも「ほとんど不安にも似た興味」といったものばかりではないはずであり、また、互いの記述が暴力としての解釈を帰結することも必然ではないが、しかし『フリータイム』というこの芝居にとって…

『フリータイム』(2)

(つづき) たとえば、登場人物の一人が何かを語る、周りには五人の役者がいる。五人の役者達は壁により掛かったり、椅子に足をかけたりして身体を動かしているが、沈黙している。彼らの視線が語り手に向けられていることもある。まるで物言わぬ動物のような…

パレルゴン(15)

(つづき) カントによれば、およそ技術的所産が可能であるためには規則を前提とする。だが芸術は技術的所産であるにもかかわらず、「その作品を産出するために従わねばならないところの規則を自ら案出することができない」とされている。規則を前提とするこ…

『フリータイム』(決定)

(つづき) だが、批評は公表されるべきでないという彼女の提案には無理がある。まずもって作家は、自分の作品についてのみならず他の作家のものについてもまた、「なぜこの作品が好きか、なぜこの作品が嫌いか」と誰かが語るのを聞きたがっているものではな…