ロザリンド・クラウス----批評の方法(4)

アジェ『ベルサイユ』

(つづき)
 『シュルレアリスムの写真的条件』のなかでロザリンド・クラウスがW・ベンヤミンに言及する数は決して多くない。*1わずかな引用と言及において、クラウスがベンヤミンシュルレアリスム論を充分に汲み、議論の俎上に載せているとは言いがたく、二人のシュルレアリスム論にはかなりの隔たりがある。たとえばクラウスはベンヤミンシュルレアリスム論にとって重要なキーワードである「世俗的啓示」*2に触れることはない。したがって、ベンヤミンからクラウスへという線を一つの軸にして、写真をキーワードとしたシュルレアリスム観なるものを描こうとするなら、両者の異質性をも知っておく必要がある。ベンヤミンとは異なり、クラウスの論説にはシュルレアリスムに政治的な含意を読み取る記述はない。作品が産出されるための機械的条件(クラウスの言う「構造的論理」)を問うことが主旨である『シュルレアリスムの写真的条件』にとって、何がどのように写っているのかは問題とならない。これが、クラウスの言説が‘作品から’「解釈」という機能を排除したことの意味である。また、ベンヤミンによる分析の対象は写真に限定されていないが、一方、クラウスはシュルレアリスムの文学にも絵画にもその論証のプロセスの中で触れていない。あたかもすべてに「写真」が先行するかのごとく、諸技術の差異は等閑視されている。比喩や構造上のモデルとしてではない具体的な写真作品についても同様であり、クラウスの批評において最も唐突な中断、議論を引き継ぐことのないままに放り出されている箇所とは、写真における技術の多様性という問題をどう考えるのかと、彼女が自問するときである。こうした限界は、様々な形式上の異質性を乗り越えてシュルレアリスムの美学を一般化しようという彼女の問題設定に原因がある。ロザリンド・クラウスシュルレアリスムの美学を一般化するという、自分ではその理由を示すことができない借り物の目的に「飛びつく」のは、「一般化」することが自らの方法論を適用するための口実となるからであり、他の学問から借りてきた諸理論を適用することによって「価値ある発言と考えられる問題提起」を思いつくという利益が得られるからであるが、こうした「方法論」に対し批判的な疑義を呈するような事態に出会うとき、彼女はそれを回避し、黙殺してしまう。こうした論理プロセスこそが彼女による批評の「方法論」であり、評価を問われるべきものなのであって、そこで用いられる諸理論が批評の価値を左右するのではない。誤解はないと思うけれども、念のために付け加えておけば、ここで非難したいのは他の学問による諸理論を適用することではなく、その手続きである。
 だが、クラウスによる直接の言及こそないものの、『シュルレアリスムの写真的条件』の結論部をなす、二人がシュルレアリスムを分析する際に重要な役割を演じているある認識を、両者から共通に読み取ることができる。その論理を以下に簡単に示す。現実の痕跡ないし指標である写真に対し、その写真の外部・枠外において何らかの書き込みを加えること(「標題」を付けること、コピーを重ね合わせること)によって、「視覚における無意識的なもの」(ベンヤミン)ないし「自然としての現実」(ベンヤミン、クラウス)を「エクリチュールによって拡張し代補する」(クラウス)というものである。その事例については後述する箇所で言及する。既に見たように、ベンヤミンとクラウスにおいてその評価基準は異なる、と言うか、ベンヤミンにはこの論理を用いて作品を評価するための判断基準がある*3が、クラウスにはない。『シュルレアリスムの写真的条件』を読んでほとんど誰もが感じるであろうこととは、「だからそれがなんだというのだ?」という不満ではないか。ここで示される「構造的論理」に対して、ペシミスティックに批評を加えるならばこれは保守的なリヴィジョニズム(歴史修正主義)の言動に力を授ける条件だとも言える。(クラウスが用いる「代補」という語はデリダから借用したものであるが、当ブログでも確認してきたように、デリダは別段「代補」という論理そのものが何かしらの批判や創造を--デリダは「創造」という語を安易に使うことはないけれども--約束するものとして評価しているわけではない。代補の構造はしばしば批判の対象ともなっている。)したがって、こうした「構造的論理」そのものが作品の価値を保証するわけではない。なぜシュルレアリスムなる芸術活動がありえたのか、何が面白くて彼らはかく仕事をし得たのか、その答えはクラウスが示した「構造的論理」にはない。
 こうした「問題提起」としての機能を果たしているのは、『シュルレアリスムの写真的条件』に限定すれば、ブルトンを通じて成される分析だけである。つまり、シュルレアリスムの核心を成すとされる「痙攣する美」において核心を成すであろうものとは何か、「自ずとやってくる」とされたナニモノカとは何か、という「問題提起」である。「自ずとやってくる」ものはなぜどのようにして「美」と呼ばれることができるのだろうか。「自ずとやってくる」“こと”に価値があるのかそれとも「自ずとやってくる」“もの”に価値があるのか。なぜそれはシュルレアリスムにとって作品の条件であるのか。定義すなわちかつて〈実現された・目指された〉シュルレアリスム以外にシュルレアリスムの可能性はないのか。そうした「問題提起」を、クラウスが教えてくれたその答えに満足することはできないにしても、『シュルレアリスムの写真的条件』から受け継ぐことができるだろう。話をあまり広げすぎないように、ここでクラウスが論じる《痙攣する美》とは何か、見ていくことにする。その過程で、「無意識」、「自然」、「技術」、「物質的因果性」についても改めて考えていく予定である。(つづく)


画像アジェ『ベルサイユ』 ;リンク先 →http://www.masters-of-photography.com/A/atget/atget_vase.html
プリントはもっと美しいのだ。もう会期終わっちゃったけど。→http://www.syabi.com/details/keiren.html

*1:引用はわずかに一度、ベンヤミンのエッセイ『シュルレアリスム』から、シュルレアリスムにおいて写真が使用されたことの重要性を示す事例として一文が引かれているにすぎず、他には引用文なしでの言及が、「写真に与えられた仕事に関するこれまでで最も重要な声明」としてベンヤミンの『複製技術時代の芸術』についてあるのみである。『オリジナリティと反復』全体を通じても、『指標論』において一度引用があるだけである。

*2:ベンヤミンの『シュルレアリスム---ヨーロッパ知識人の最新のスナップショット』(1929)は難解であり、このエッセイに続けて議論を組み立てることが困難であるようなテクストだが、結論として、大略次のようなことが述べられている。「世俗的啓示」とは、たとえば読書という経験をテレパシーとして認識させるような「陶酔」の経験のことである。ハシシに陶酔するのではなく、思考がハシシであると認識すること、それが革命のために獲得されるべき「陶酔の力」である。「世俗的啓示」において初めて、「身体とイメージ空間が相互に深く浸透し合」う「革命的な放電」が、「集団的身体」の「技術における組織」が、可能になるだろう、云々。訳は岩波文庫版の野村修による訳を用いた。

*3:たとえば『写真小史』の中で、シュルレアリスム写真の先駆と位置づけられるアジェの写真に見られる人影、人物の不在は、その標題によって、「人間と環境の疎遠化」を「政治的な訓練を積んだ眼」に開示する、とベンヤミンは書く。ただし、アジェの写真は必ずしも人物の不在を主題にしてはいないけれども。