2008-01-01から1年間の記事一覧

トラバ!

トラックバックがあったということで、何か相手先に返答をした方がよいのだろうと思い、先方のブログをのぞきに行きました。ですが、あいにく、リンクを貼ってくださった意図がよくわからず、失礼かも知れないと心配しつつも、ここでは触れずにおりました。 …

経験したことのないものを経験することについて(2)

(つづき) 文学作品を読むことは限りないストレスであるとデリダが書くとき、そこでは作品はつねに乗り越えられるべきシミュラークルであり疑似餌であると位置づけられている。だが、何に向けて乗り越えられるべきなのか、「証言」に向けて、「他なるもの」…

経験したことのないものを経験することについて

なぜこの作品が重要であるのか、なぜこの作品を参照したりあるいは保存したりする必要があるのか、こうした問いを批評が回避し続けるなら、「売れ行き」や評者の主観や同時代性といった現在性にのみ基づいて「批評」が為されるなら、作品の命運は現在性を演…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(22)後

(つづき) デリダが指摘するところに拠れば、文学において個々の作品を「作品」として識別させるものは「枠」と「標題」(「指向的構造」)の差異である。たとえば、カフカの小説『審判』には『法の前に』と同じ内容を見つけることができ、つまりは「同じ内…

訂正

以前、デリダの「ジャンルの法」は邦訳がないと註のところに書いたのですが、間違いでした。「ジャンルの掟」としてすでに邦訳あり。ただいま絶版のようで、ネットの古書店で時価5千円。 あのう、もしこういう間違いを見つけたら指摘してくれていいですから…

制作にもっと時間をかけたくなりました。 とりあえず、ロザリンド・クラウスについての(ノートみたいな)やつは近々終わらせますが、みなさまお休みなさい。

最近、ちっこりなっとコ忙しいことと、食あたりしたこと、岡崎乾二郎さんの個展について何か書こうと思ったらいろいろと難しく考えてハマってしまったこと、などの理由から、ブログの更新が停滞しました。一週間以内を目指して更新しますので、どうぞ、お見…

2 『精神と自然 生きた世界の認識論』 グレゴリー・ベイトソン 佐藤良明訳 新思索社 2001

1 エントロピーについての参照は、『エントロピー』小野周 河宮信郎 玉野井芳郎 槌田敦 室田武 編著 朝倉書店 1985

『修行機械のサマーディ』 瀧口博昭展

四谷アートストゥディウム併設のギャラリー、ギャラリー・オブジェクティヴ・コレラティヴにて、高嶋晋一と同時に今年度の大賞を受賞したアーティスト瀧口博昭による個展『修行機械のサマーディ』が開催されている。10月31日(金)─11月16日(日)まで。11時…

『These fallish things』高嶋晋一展

この展評も長くなりそうなので、途中でアップすることにしました。なるべく早く続きを書くつもりではいるのですが。 四谷にあるアートストゥディウムにて、年に一度、アートストゥディウムの学生ないし卒業生のアーティストを対象に行われるマエストログワン…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(22)中

(つづき) 何が「文学」を、テクスト一般から区別し、諸芸術からも区別するのか。デリダによれば、文学とは近代になって創出されたものであり、その特徴が、「どんなことでも一切を言ってよい権利が原則として保証されている」という点にある。そのことによ…

お知らせ

プロフィールにメールアドレスを載せました。

東京は四谷のアート・ストゥディウムにて、以下のレクチャーが開催されるとのこと、友人からメールが送られてきたので、そのまま転載します。 上崎千が採り上げる予定のエドワード・ルシェーは、ロザリンド・クラウスもグリーンバーグ以降のメディウムの問題…

東京は京橋の南天子画廊にて、アーティスト岡崎乾二郎さんの個展が開催されています。 わたくし、行って参りました。ぶええっくしょい。ズルルッ・・・・。 ふだんあまり絵画作品を見慣れていない方は、ぜひ、あわてず、じっくりとご覧になってみてください…

東京の四谷にあるギャラリー、『ギャラリー・オブジェクティヴ・コレラティヴ』にて、アーティスト高嶋晋一の展覧会が開催されています。 『These fallish things』、わたくし、行って参りました。ここに展示されている作品群には脳を刺激されますョ、アート…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(22)前

思った以上に難しいテクストでした・・・・。長くなりそうなので、ここらへんでアップしておきます。 (つづき) カフカの『法の前に』という小説をデリダが採り上げるのは、「法の歴史と文学の歴史を一緒に考えることの必要性という仮説」においてであった…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(21)

(つづき) オリジナリティとシミュラクルを巡っての議論は、クラウスが旧態依然とした美術界を批判するために依拠するのだと宣言した「ポスト構造主義」哲学に、なるほど、確かに見出すことができる。ここで採り上げるのは、ジャック・デリダの『先入見』--…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(20)

(つづき) 作品ないしテクストの固有性とは何か。そもそも、固有性とは何か。それは堅固さ(結合の安定)であるのか、それとも不可入性(場所の占有)であるのか。こうした問いはクラウスが展開する論説の圏域にはない。なぜならば、クラウスにとって固有性…

フェルメール展のピーテル・デ・ホーホ

「鑑賞」のコーナーを全然埋めていないが、美術館やギャラリーに足を運んではいるのだ。映画館には年に数回しか足を運べないが、ビデオでなら月に10本くらい見てる。漫画は最近では『IKKI』と黒田硫黄の『新しい朝』を読んだ。黒田硫黄、ホントにスランプだ…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(19)

(つづき) 「ポスト構造主義とパラ文学」というテクストの中には、クラウスがバルトを、デリダをどのように受容したのかについて自ら語っているくだりがある。彼女の考えでは、バルトとデリダはその企ての点で多くの違いがあり、彼らを並置できるのは「パラ…

トラバを廃止しました。 灰汁さんという方からのトラバだけはマトモでした。この方のブログはおもしろく、リンクを残そうかとも思ったのですが、現在はご本人の日記(?)も非公開にされているようなので何も残さず、トラバを消しました。

ロザリンド・クラウス----批評の方法(18)

(つづき) では、何が想像力の運動そのものであると言われるのだろうか?バルトに拠れば、この物語は二つの隠喩のセリーから成っている。一つは「円形」のセリーであり、もう一つは「液体」のセリーである。それぞれのセリーにおける語の隠喩的変換によって…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(17)

(つづき) 「Entropy」の結論部を見ておこう。なぜ、クラウスにおいてシミュラクルとエントロピーが合流するのか、なぜそれがグリーンバーグ批判たり得るのか、その理由がこの部分にある。クラウスがグリーンバーグを批判するのは次のような理由による。 「R…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(16)

(つづき) クラウスによれば、擬態とエントロピーの事例によって示された境界の崩壊、自我の抹消は、ともにシミュラクルという概念によって説明することができる。その上で、擬態とエントロピーの合流はシミュラクルを媒介にして、グリーンバーグへ向けられ…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(15)

(つづき) 擬態はエントロピーであり、カイヨワの語ることはスミッソンの語ることである。両者の間に区別はない。だが、こうした境界の抹消ないし侵犯は外見上のものであって、カイヨワの言説がスミッソンの言説に入っていくことも、その逆、スミッソンの言…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(14)

(つづき) R・クラウスによる「Entropy」というテクストの特徴は、このテクストを書くために用いられた方法論が、そのまま、テクストの内容として言述されるものでもあるという点にある。したがって、このテクストを読むことは、ロザリンド・クラウスによる…

旅行

三日ほど旅に出た。各地で豪雨だったようだが、幸い晴れた。 地元の人はよくしゃべる、あちこちで道連れの友になる。 地元のバスにも乗る。運転手は、乗り込んだとたん、今年は客が来ないだの、パックの観光客は地元を見物するだけでカネを落としていかない…

ロザリンド・クラウス----批評の方法(13)

(つづき) ロジェ・カイヨワの目論見は、自然の活動や生成を人間の目的論的理性から説明するのではなく、逆さまに、人間の行為を説明する理論を自然の活動や生成に求めることにある。カイヨワは問題提起として次のように書いている。「人間もそれ以外のもの…