ロザリンド・クラウス----批評の方法(16)

(つづき)
 クラウスによれば、擬態とエントロピーの事例によって示された境界の崩壊、自我の抹消は、ともにシミュラクルという概念によって説明することができる。その上で、擬態とエントロピーの合流はシミュラクルを媒介にして、グリーンバーグへ向けられた批判として機能する。カイヨワとスミッソンの、彼らのテクストあるいは作品を生気づけている志向ないし構造とは、「空間のどこにも場所をまったく持たないという一種のシミュラクルの込み入った謎」によって説明されるのだ。さて。クラウスがドゥルーズを参照するよう求めるのは、以下の文章を通じてである。
「When Plato introduces the notion of the simulacrum in The Sophist, he describes it as a copy that, though identical, has paradoxically become nonresemblant. Since all earthly objects are themselves copies of forms, it is not the fact of being a copy that is simulacral, but that of being an untrue, nonresemblant copy. In Christian doctrine, humanity is made in God's image, but, having fallen into sin, no longer resembles Him. Christian revelation itself provides a guide through which the individual subject can map its way through a thicket of false replicas and back to the inner truth that would secure resemblance. But in The Sophist, Plato imagines the possibility of a mapless world, in which there would be no way to measure, no way to tell the difference between the true copy and the simulacrum, and thus "what side of the mirror one was on."」
(プラトンが『ソピステス』においてシミュラクルの概念を持ち出すとき、彼はシミュラクルを同一であるがしかし逆説的に非類似へと至ったコピーであると言う。およそ地上にある事物すべてがそれ自体形式のコピーであるからには、シミュラクルというコピーへと生成するということはなく、 すべては虚偽の、非類似のコピーなのだ。キリスト教の教義においては人間は神のイメージにおいて作り出されたのであるが、しかし、原罪ゆえに、人間はもはや神に似てはいないのだとされる。キリスト教の啓示それ自体は、個々の主体が誤れる複製としての茂みをくぐり抜け、それぞれの進む道を思い描くことができること、および、神との類似性を保証する内なる真実へと回帰することを通じて、一つの道標(ガイド)を準備するものである。だが『ソピステス』においてプラトンは、道標(ガイド)なき世界の可能性を想像するのである。そこでは計測の方法もなく、真実とコピーとシミュラクルの違いを知らせる術もない。かくして、「鏡のどちら側に立っているのかを知ることはできない。」。
 これこそが、スミッソンの「エントロピー」を、カイヨワの「境界の抹消」を説明する、とクラウスは言う。だが、クラウスによるドゥルーズの抜粋要約には肝心の部分が抜けている。補足すれば、当該箇所でドゥルーズが書いているのは、人間は原罪ゆえにシミュラクルになったということである。したがって、ここでシミュラクルとは、「道徳的実在を喪失した感性的実在」の謂である。すなわち、我々人間は「正しい目的」や「真の知識」を持たず、そのつどの「感性的」で特殊(個別の、ケースバイケース)な印象や見かけに翻弄されつづける存在である、ということである。だが、ドゥルーズの主要な論点はそこにあるのではない。ここで続けてドゥルーズが書いているのは、シミュラクルにおける類似の効果が「モデルの中で働く手段とはまったく異なる手段によって生産される効果である」ということである。「シミュラクルは、不均等、差異を基に構築され、悲相似を内在化する」。簡単に言えば、たとえばリンゴの絵を描くとして、リンゴを産出する手段とリンゴの絵を産出する手段は異なる、ということであり、そこには素材や技法という「悲相似が内在化」されている、ということである。素材や生産手段が同一であるならば、それはリンゴであって絵画ではない。メディウムや技法という「不均等、差異」において絵画はリンゴそのものではなく絵画である、ということである。(ただし、この時期のドゥルーズが、なぜ似るのか、何によって似るのか、何が似るのか、ということを充分に述べているかどうかについては疑問が残る。ちなみに、後の著作である『感覚の論理学』においては、類似はダイアグラム(図式ないし地図、工程図、フローチャート、イメージ)の作用に基づくと書いている。)*1)これが「永遠回帰」の、「差異の肯定」の論理である。
 ドゥルーズの論説から導かれる先を追いたいが、早く片付けたい議論が山積しているため、後回しにせざるを得ない。残念だがクラウスに話を戻さねばならない。クラウスによる抜粋要約から読み取ることが困難であるのは、一体ドゥルーズによる論説の何が、「空間のどこにも場所をまったく持たないという一種のシミュラクルの込み入った謎」を説明するものであるのか、ということだ。明らかに、そうした説明に該当するものはどこにも書かれていない。クラウスがそう考えているのとは異なり、ドゥルーズは、二つのセリーが白い砂と黒い砂を混ぜ合わせるのと同様に混交されると言っているのではなく、言い換えれば、どちらがどちらであるのか分からなくなると言っているのではなく、二つの「セリー」間における二つの働きかけが重ね合わされることはない(どちらが優位であるかを決定することはできない)と言っているのである。また、そこではオリジナルとコピーとシミュラクルの区別がつかないと述べられているのでもない。なぜならば、クラウスの言うようなオリジナルとコピーとシミュラクルの間の区別不可能性は、それ自体それらの階層化を前提とするものであるが、しかし、オリジナルとコピーの階層性(優先順位が決定可能であること)という考え方自体を、シミュラクルが批判するというのがドゥルーズの書いていることであるのだから。
 ところで、問題はクラウスの誤読を検討することではない。こうした誤読から読み取ることができるのは、彼女にとってここで引用されるどのテクストも本質的に彼女の思考に参与するものではないということである。では、より本質的な彼女の思考はどこに求められるべきだろうか。彼女がここで行っている異質な言説の混交は、一体どのような思考に基づくものなのか。(つづく)

*1:あくまでも政治的視点にコンテクストを限定した上での議論であるホミ・バーバによる「擬態」の論理、すなわち、イギリス人になりきろうとしてなりきれないインド人のアイロニーを抵抗として評価するという論理と、これは同じであるとも言える。だが、この論理は、抑圧と専制という具体的な政治上の文脈を照らし出す効果以外には、なにひとつ特異なものを引きずり出すことはない。そこには不可視にして不可触であるような「無傷のもの」と、アイロニーとパロディしか残らないだろう。だが、自信はないが念のため、‘この時期のドゥルーズ’という一言を付け加えておくことにする。