フェルメール展のピーテル・デ・ホーホ

 「鑑賞」のコーナーを全然埋めていないが、美術館やギャラリーに足を運んではいるのだ。映画館には年に数回しか足を運べないが、ビデオでなら月に10本くらい見てる。漫画は最近では『IKKI』と黒田硫黄の『新しい朝』を読んだ。黒田硫黄、ホントにスランプだったのか?とか訝しがりつつ。で、じゃあなんで書かないのかと言えば、あまり書く気が起きなかったからである。黒田硫黄はイイし、コロー展もよかったし、‘対決なんとか’とかいう展覧会の蕪村や等伯もよかったが。
 そんで『フェルメール展』である。あまり乗り気でなかった。フェルメールは何につけ(構図の作り方、場面演出の仕方、色彩や明暗の構成配置等々)明快ということが美点だけれど、それ以外はたぶんあまり発見もないだろうしと思っていたからだった。いやしかし、そんなときにこそ、作品の真価が問われるのでわ?と気持ちを奮い立たせて、見に行った。
 ・・素晴らしかったのはピーテル・デ・ホーホだ。以下、文体が変わる。
 ピーテル・デ・ホーホ(Pieter de Hooch 1629-84)が素晴らしかった、心を奪われた。あの床、あの衣服、あの光。それをそのようなものとして描いたということに心打たれるのだ。どれほど些末であろうとも、それをとりまく固有の空間が存在している。とすると、たった今書き出しで書き付けたわたしの言葉(あの床、あの衣服・・)は誤解を招く。「それ」は事物ですらない。そこには感覚が、感覚の賛美がある。同時に、感覚を絵画において実現するという点において、あまねき感覚の実現を一つの例外なき法として自らに課することで、ホーホは絵画という領域を変形し、定義していると言えるかもしれない。まだそれを絵画と呼ぶとして、そしてそうであるからには、今日の我々の‘常識’においては、これが絵画であることは自明のものと考えられているとして、だが。その課題の実現において、彼の固有性・特異性がある。その固有性を言葉に翻訳することは難しいから、こうして抽象的な定義をして記憶にとどめておく。
 いわばホーホの絵画は部分から成る。断片ではなく、固有の質を持ったいくつもの空間から成る。それは近くから、そして時間をかけてたっぷりと見られることを必要とする。それらがどのように関係しているのか、その分析を充分に展開する力が今の私にはないけれど。
 惜しむらくは、タイトルを失念したが、窓辺で読書する女性を描いている作品が未完成であることか。画像でではなく、実物を見なければならない作品の一つである。



フェルメール展 →http://www.tobikan.jp/museum/vermeer.html