ロザリンド・クラウス----批評の方法(20)

(つづき)
  作品ないしテクストの固有性とは何か。そもそも、固有性とは何か。それは堅固さ(結合の安定)であるのか、それとも不可入性(場所の占有)であるのか。こうした問いはクラウスが展開する論説の圏域にはない。なぜならば、クラウスにとって固有性ないしオリジナリティとは、常に作品にとってのそれではなく作者にとって、あるいは作者の合法的な代理人にとってのそれであるからだ。クラウスが言及し、かつ批判することになるオリジナリティとは、指向対象としての起源であり、作品の起源としての作家自身の自己・「創造的衝動」の謂いである。起源を反復することは不可能であるがゆえに起源は固有ナルモノであるというテーゼ、模倣不可能性と唯一性の経験こそ、クラウスが批判する当のものである。たとえば、『アヴァンギャルドのオリジナリティ』に対するアルバート・エルセンによる批判に応答するために書かれたテクスト『敬具』において、そこでは「オリジナリティ」とはコピーを許諾し流通させる権利(=著作権)であると明言されている。彼女はこうした倫理的ではないが合法的ではあるような、経済的な利潤を生み出す仕掛けに対し批判的に言及しているわけであるが、その点についてはさておき、こうした言表からわかるのは、彼女にとって「オリジナリティ」は作品に帰属するものではない、ということである。それが法律によって与えられるものであろうと、敬意によってあるいはその‘汲み尽くしえなさ’において与えられるものであろうと、つまり合法的なものであろうと倫理的なものであろうと、いずれにしても、彼女にとってオリジナリティとは作品の次元に属するものではない。
 様々な形で言及してきたが、クラウスのオリジナリティ批判が混乱するのは常にこの点においてである。なるほど、彼女は「感情表現の紋切り型とその相も変わらぬ再利用」でしかないような作品、「作者自身の情動の印」でしかないような作品を批判する。けれどもここには、一体彼女はどのようにしてその作品に対して「作者自身の情動の印」を認めることができたのかというパラドックスがあり、彼女はこの問題を解決していない。つまり、彼女の論理には矛盾がある。したがって、『敬具』に先だって書かれた『アヴァンギャルドのオリジナリティ』において、その分かりにくくかつ容易には同意できない論旨をもって、しかしとりあえずは支持しうるような結論すなわち、オリジナリティなるものが「反復と表象=再現というプロセスによって、内部から引き裂かれているのであり、それは常に分割されたもの、複数的なものなのである」が読者に呈示されるとしても、では、そうした彼女の分析、彼女の語りを可能にした作品をどのようにしてそれとして認めるのかという問題は残る。全てが引用の織物であると語るその語りを開始させる当の作品はどのようにして認められるのか、また、なぜ、それについて語る必要があるのか、そうした問いに対して、クラウスは答えることができないように思われる。1978年に制作された「地獄門」は生前のロダンによって構成されることはなかった。ゆえに、クラウスはこれを「贋物」と呼ぶ。だが、その理由は「複数芸術の場合の〈慣例による「オリジナル」〉が提起する難問を体験する好機」として「歓迎」するがゆえに、なのである。彼女はロダンの「地獄門」を前に、ほくそ笑みつつ、喜んで、「贋物」と叫ぶのである。彼女の言表をもっとあからさまに言い直せば、自分の語りを開陳する「好機」として作品は「歓迎」されるのである。
 クラウスによる固有性ないしオリジナリティの議論を整理するために、以下、デリダの論説を参照することにするが、しかし、予め断っておくが、デリダには堅固さ(結合の安定)という意味での固有性を肯定的に考察するような議論は希である。少なくとも私が読んだ限りでは、ということはしたがって、私がここで紹介できる限りにおいては、ということである。ここでデリダを再び読む理由は、固有性に関する議論を整理し、同時に、それとは別の固有性に関する議論へと話を展開させるためである。(つづく)