柳宗悦と芹沢銈介 その2

argfm2011-12-18

 民藝と芸術との境界線はどこにあるのだろうか。柳は個人の表現に冷たい。「天才の芸術」をまったく評価しないわけではないのだが、冷遇して黙殺しあわよくば視界から消えてほしいというような、底意地の悪さを感じさせる。なぜなのか。その理由は、柳が考えていた民藝の政治的使命に求められる。
 さて、民衆レベルの物流というか精神の交感というか、国境を横断する交流において理解された民芸は、Love&Peaceを志向する。民藝とは、政治的に引かれた境界や対立を越えて、他者の歴史や精神を理解し、リスペクトを可能にする制作物のことである。現地への旅行を通して既に朝鮮美術に対する敬愛の念を深めていた柳は、1919年大日本帝国統治下の朝鮮において起きた3.1独立運動に共感し、運動を暴動と煽るマスメディアに抗して、勇敢にも植民地主義政策を批判する一文を読売新聞に投稿する。近代化や政治的対立を基盤として生まれた価値観に抗し、自然環境に見合った合理性とその美しさにおいて沖縄の赤瓦を評価、廃れかけていた染色技術(芹沢が学んだ「型染め」)を制作技術の高さにおいて再評価して脚光を当てたのも柳である。柳は民藝によってアイヌの文化、台湾少数民族の文化を紹介してもいる。たいしたもんである。ポストコロニアル思想の祖と言われる思想家・革命家フランツ・ファノンは、その著『地に呪われたる者』の中で、民族文化は植民地主義政策に対して有効な反証たり得るのだと書いている。植民地主義政策の手法が、自律し得ず劣った存在である者達(野蛮、堕落、動物化)を正しく導かねばならないという「大義」に基づくとするならば、民族文化への評価は、過去が恥ではなく尊厳であり、栄光であることを示すのだ、と。
 民藝が民衆(匿名性、「無名」)の工芸でないような芸術について冷淡である理由の一つは、民藝のこうした非政治的な政治性に求められるだろう。ここで「非政治的な」と書いたのは、要するに、社会や共同体の創設を志向するとは言え、柳には制度や法についての考察が欠けているからである。したがって、柳の理論を政治的統一体としての社会の創設として受け取ると難問が生じる。ちなみに先にも触れたアルジェリアの革命家ファノンは、伝統的な民族文化の擁護は政治的経済的自立を獲得する闘争にとっては役に立たないと批判を加えてもいた。特産品の保護開発や観光誘致という手法は当然であるかのように柳も奨励しているのだが、こういった手法は政治としての自治には直結しない、ということである。*1宗教家にしてアナキストであった柳の民芸理論はその意味で‘非政治的’であり、社会を作るとは言っても、国家や法と接触しない限りでの(それが可能である限りでの)、生活ないし生産様式限定の理論であると考えるべきだろう。民藝が「民衆の生活」を創出するその力とは、なるほどなあ、なるほど上手いことやってやがるなあ、という、誰の私有でもないがゆえに誰にでも開かれている理(合理性)の持つ力である。世俗的なコンテクストを離れて受胎させる力。モノとしてであれ技術としてであれ、民藝はこうして交流を、平和を生む。民藝はLove&Peaceのためにある。尤も未だ、それが倫理的でもあるようなLove&Peaceなのかどうかは定かでないのだけれども、この点については後で考えるとして、とりあえず、なるほどピカソマティスの作品を観てスペイン人やフランス人を尊敬するかと言えば、必ずしもそうはならない。デュシャンレディメイドを誰しもが行ったとすれば無意味でありスキャンダルにもならない。民藝は作品を作る主体に「民衆の生活」を据えるのであり、民藝の政治的使命にとっては誰でも良い誰かであったという事実、すなわち作者の匿名性が欠かせない。要は奇特な人は民族の生活を知るためのサンプルとはならない、ということである。ゆえに、個人の主観に任されてある[ように柳の目には映る]芸術は冷遇されることになる。・・・しかし、何かがおかしい。
 何がおかしいか。一つには、民族[の生活]を愛するために個人による作物への愛を捨てねばならぬという帰結が、おかしい。仮に柳が「直観」によって眺めているその器なり道具なりを生活の産物であると示すことができたとしても、同時にそれが個人の作物でないと、天才の/あるいは鈍才の/あるいは奇特な人の作物でないと、証明することは難しいだろう。逆もまた然りである。個人の作物であることは生活(環境風土、労働)の産物でないことを必ずしも帰結しない。二つには、道具と芸術を並べて優劣の判断を下しているところが、おかしいのである。芸術は柳による民藝の規定の内には収まらないかも知れないが、しかしこのことは、単に、芸術と民藝との区別を意味しているに過ぎない。区別という点から言えば、なるほど民藝と芸術は逆説的な関係にあるようにも見える。たとえば民藝によって逆説的に定義される芸術とは、すなわち、嘘が許されるもの(道具に嘘はない)、現在に奉仕せず時代錯誤であるもの(使われなくなれば廃れ捨てられる道具は現在に奉仕する)、個別な存在の領域----柳によれば「主観」----にあるもの(道具においては全てが明らかであり、かつ明らかでなければならず、道具に理解不可能な秘密はない)、などである。さて、これらの非民藝としての定義をもってしても、芸術は国境を越えた交流を許さないという帰結が得られるまでには至らない。すなわち、柳が「芸術」を斥ける理由は正当化され得ない。全てを理解し愛する交流と、全ては理解できないまでも注意を傾け心に留め続ける交流とは別のことだが、共にLove&Peaceの可能性ではないだろうか。したがって、政治的使命という見地から下される柳の価値判断は不当であると、私は考える。民藝と芸術の境界線を、あるいは民藝による芸術批判の可能性を、そこに求めることには意味がない。
 では最後に、民藝の「美」について考えてみることにする。(つづく)

*1:今日では、「特産品」としての商品が資本主義ないし〈中心=周縁〉という階層構造の副産物であることすら珍しくない。「特産品」の「制作者」たちの責任を、その自己決定の自由において、かつ理由(理性)において、問わざるを得ない局面があるのは、このためである。