2008-02-01から1ヶ月間の記事一覧

パレルゴン(11)

(つづき) カントの言う「美」は、感覚には適用されない。というのも、感覚は反復可能(カントの言葉で言えば「反省しうる形式」)でないがゆえに、反復され得ないものに範例としての価値を与えること、すなわち、これを「美しい」と呼ぶことは不条理だから…

パレルゴン(10)

(つづき) 「いかなる基準が、真正の文化的あるいは芸術的産物を公認するのか?」という問いに対する『判断力批判』の答えは、経験論(〈循環的経済=諸技術〉および〈力学的=機械的〉必然性、学知)を超出するような真理(自由)すなわち「天才(ネイティ…

パレルゴン(9)

(つづき) カントは、天才が誰かに自らの技術を伝授しようとしても、その誰かが、天才同様に生気のあるものを作ることができるとは限らないという経験的な事例を、天才の反復不可能性の理由として、天才が学知の所産ではないことの理由として、挙げている。…

(つづき) カントによれば、天才とは範例(手本、先行する規則)なしにわれわれの認識を拡張する契機を与えるもの(自然)であり、したがって、学んで得られるものではないし、自ら産出のプロセスを記述することもできない。にもかかわらず、天才は良い模倣…

熊谷守一展

冬型の気圧配置が高まるとの予報通り、風が強く吹きつけ、寒い一日(13日)。そんな中、北浦和の埼玉県立美術館(http://www.momas.jp/3.htm)へ『熊谷守一展』を見に行ってきた。同行者二人、画家の伊部年彦と芸術学のM氏。平日のためか、1時半ごろ入場して…

内容に不備があったので、一度アップしたものを差し替えました。差し替え中に、アクセスカウンターの数字が一つ増えたようで、読んだ方、ごめんなさい。こちらを正しいヴァージョンにします。 (つづき) それだから、天才とは、循環的経済の外にある‘自然’…

(つづき) 賃金を必要とする技術(手工芸)とミツバチの巣は、「自由の欠如、規定された合目的性、有用性、規範(コード)の有限性、理性を欠き、想像力の戯れを欠いたプログラムの固定性、といった点において似ている」、とデリダは指摘する。『判断力批判…

(つづき) 邦訳者である湯浅博雄のあとがきによれば、デリダ(1930 - 2004)の『エコノミメーシス』(原書1975、邦訳2006、未来社)は、ミメーシスを主題とする共同著作の一篇として書かれた。デリダがこの論考において目論むのは、カント(1724 - 1804)の…

パレルゴン(4)

この日のぶんは、削除扱いにしました。 下に小文字で表記されているのが、削除された過去の文章です。(080229) (つづき) 少し長くなってきたので話を整理しよう。(以下ロボット風、やや早回しの口調でお読み下さい。) MOMAノ展覧会『20世紀芸術ニオケ…

(つづき) クリフォードの批判は、芸術論、芸術作品そのものというよりは、オリジナリティや普遍性の捏造を必要とするような展覧会・展示という発表のシステム、コレクションというシステム、流通のシステムに、彼が「芸術=文化真正性システム」と呼ぶもの…

更新情報[その他]

読んで下さっている皆様、ありがとうございます。 週イチくらいのペースで更新するつもりですので、今後ともどうぞよろしくお願いします。 ブログのタイトルを変更しました。 ブックマークは近いうちに加えます。 アクセスカウンター付けてみました。前から…

(つづき) 「MOMAでは、テクストへの考慮というものは、展覧会の入り口できっぱりと言い渡されているように、人類学者の仕事とされる。文化的背景は、正しい審美的な鑑賞や分析にとって本質的なものではない。優れた芸術つまり傑作は、普遍的に認知できるも…

ポスト・モダニズムあるいはポスト・コロニアリズムの再検討から。 文化人類学者ジェイムズ・クリフォードは『部族的なものと近代的なものの歴史』(『文化の窮状』所収 人文書院)において、ある部族(民族)の記憶(歴史)が別の部族(西洋人)によって時…