パレルゴン(11)

argfm2008-02-29

 (つづき)
 カントの言う「美」は、感覚には適用されない。というのも、感覚は反復可能(カントの言葉で言えば「反省しうる形式」)でないがゆえに、反復され得ないものに範例としての価値を与えること、すなわち、これを「美しい」と呼ぶことは不条理だからである。「美」について、「“わたしにとっては”美しい」という言い方はできない。「美」を感じるのは主観であるが、にもかかわらず、何かを美しいと称する以上は、他者の同意を得られるのでなければならない。「美しい」という判定の中に、既に他者の同意が含意されているのである。色彩も、音色も、芳香も、味わいも、身体が経験する様々な感覚はすべてこれ「美」として語るにはふさわしくない。したがってこれらは『判断力批判』の対象ではない。さらに、美を判断するためには、対象への無関心がなければならない。さもなければ、感情は対象に従属したままであり、自由なもの(感情の上位の形式)となり得ないからである。利害関係や対象の完全性(カンペキ度)は無視しなければならない。要するに趣味判断とは、何かに「触発」され、‘インスパイア’されて想像力*1が悟性*2の支配から自由になりつつ「遊び戯れ」、にもかかわらず、その「遊び戯れる」想像が想像の内部においてつじつまのあったもの(それ自体の目的を持っているように見える)と考えられる限りにおいて感じられる、想像力の能動性と悟性の拡張性との一致という「快」および「適意」、である。「目的なき合目的性」と、カントは言う。以上で『判断力批判』における趣味判断というものの、「美」というものの、大まかな説明を終えた、としておこう。このややこしい理論を前にして理解のために事例を挙げたいが、それには困難を伴う。というのも、『判断力批判』において挙げられる様々な事例は、すべて事例の役割を果たすことができずにいるからである。なぜか。カントによれば「美」は「自己固有の適法性」を持つがしかし、おのれの領域を規定する固有の対象分野を持たないとされている。審美的判断とは対象の現実存在に関わらない主観的な判断なのだから当然である。にも拘わらず、『判断力批判』は、全編これ「美」の固有の対象分野を画定しようとする作業に他ならないのである。そうした画定作業におけるそれぞれの事例が、固有の対象分野を示すものとして持ちこたえられないのは当然であろう。だから、逆に言えば、どんな事例でも、それなりにここで趣味判断の事例たり得るが、それは『判断力批判』を吟味するにあたっては支障でしかない。
 こうした論理を前にして、『パレルゴン』( 『絵画における真理』所収*3 )のデリダは、趣味判断と論理的判断は異なるという言明と同時になされる、趣味判断への論理的判断の適用という矛盾がある、と指摘する。(つづく)


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*1:「構想力」、個別から普遍を抽出するための図式。再生する構想力と産出する構想力がある。

*2:対象を認識し、合法則性を判定する能力

*3:『絵画における真理』 原著1978 邦訳1997 高橋允昭/阿部宏慈 法政大学出版局