パレルゴン(10)

(つづき)
 「いかなる基準が、真正の文化的あるいは芸術的産物を公認するのか?」という問いに対する『判断力批判』の答えは、経験論(〈循環的経済=諸技術〉および〈力学的=機械的〉必然性、学知)を超出するような真理(自由)すなわち「天才(ネイティヴ)」、である。(椹木野衣の言う「悪い場所日本」および「ポップ」も、ネイティヴ志向の産物である。「思考の被占領性」という曖昧な観念によって〈‘われわれの経験’=日本美術〉なるものを「循環的経済(不自由なもの)」として規定し、それらの諸差異を消去-(パッケージング、十把一絡げ)-した上で、それに対し超越的な立場を確保しようとするがゆえに捏造される‘自然’である。だが、そんな‘自然’などない。たとえば、黒人ジャズメンの真似でしかないと苦悩する白人(邦人)ジャズメンもまた、‘ホンモノ=ネイティヴ’という観念によって苛まれているだろうが、そもそも黒人ジャズメンの演奏自体が‘ネイティヴ’でない。模倣不可能性は、〈‘ネイティヴ’=規則を生み出すための規則〉にあるのではない。非論理的で排他的な椹木の「作品」についてはいずれ機会があれば言及するが、ここではこれ以上深入りせずに済ませる。)こうした「天才(ネイティヴ)」が何を抑圧するか、どのように機能しているかについては充分ではないにせよ、概略検討してきた。後々議論を深めてゆければ、と思う。
 ところで「審美的判断」はどうだろうか。実は、ここはかなり話が込み入っている。カントにおいて「審美的判断」(趣味判断)は、芸術の基準ではない。というのも、「審美的判断」は自然の観賞についても行使されうるものだからだ。趣味が良いだけでは芸術ではない(生気がない、魂がない)と、カントは書いている。だが、後述するように、カントによれば、それは芸術にとって不可欠な要素ではあるのだ。
 では、「審美的判断」とはどのようなものなのか。判断力とは、なんだかワケのわからないものに出会ったときに、ワケのわからぬまま、われわれが行う判断というものの、その能力のことである。カントは、こうした判断力がア・プリオリな原理を持つのかどうかという問いから出発し、『判断力批判』の対象を、「判断力」が何ものをも認識しないにもかかわらず、判断としては認識能力にのみ属している(主観における表象の形式)という「快の謎」であると定める。このことはまずもって、「純粋理性」(論理的判断)から審美的判断(美学的判定)を区別することを意味している。審美的判断と論理的判断との区別とはどのようなものか。確認すれば、論理的判断とは概念に基づいた判断である。たとえば「薔薇は美しい」という言明は論理的判断を含むものであり、これは、「薔薇だから美しいのだ(薔薇とは美しいものだ)」という言明として言い換えられる。一方、審美的判断は個別特殊な美の表象(主観的な感情)に関わり、薔薇であれチューリップであれ絵画であれ仮面であれ、ウンコであれ、対象の概念に関係なく、美しいということが、このものの、固有の美しさということが先立たねばならない。対象の概念はないが、対象があることは自覚されている(いかなる関心も呼ばない現実存在)ので、「このナニカは美しい(この美しさはナニ?)」とでも言明されよう。しかしこの「美しい」という語は、今日のわれわれの常識とはかなりかけ離れたものであり、以下に説明が必要である。
 (ちなみに、おそらくクリフォードが「審美的判断」として批判の矛先を向けているのは『判断力批判』およびロマン主義美学である。彼の批判が、「審美的判断」が対象についての知識をなしで済ますという点にあることは、理解できる。だが、そもそも‘非西洋文化’における産物が、美しいものとして自らを示すことなど決してあり得ないと、言えるだろうか。たとえチューリップの美しさが植物学者の探求心をいっとき忘れさせたとしても、彼の探求心までをも、チューリップの生までをも奪うわけではない。「審美的判断」の問題は、展示の問題に還元できない。芸術の問題である。)
(つづく)