パレルゴン(9)

argfm2008-02-23

(つづき)
 カントは、天才が誰かに自らの技術を伝授しようとしても、その誰かが、天才同様に生気のあるものを作ることができるとは限らないという経験的な事例を、天才の反復不可能性の理由として、天才が学知の所産ではないことの理由として、挙げている。つまり、繰り返しになるが、『判断力批判』にとって天才とは、ネイティヴを意味する。(したがって、‘ネイティヴ’に同一化することによって経験的なるものの次元を超越せんとする欲望は、たしかに、カント哲学の中に書き込まれている。)少し具体的な事例を挙げつつこのことを検討してみよう。(アキレスの亀のごとく、目的地への到達がどんどん遅れてゆくこのタイトル・・・。)たとえば、ライブハウスや団体展に足を運べばそこには‘ホンモノ’そっくりのコピーに出くわすことがある。彼らは自分で曲を書き、自分で描き、自分たちで演奏するが、コピーである(、としよう)。経験的教養にあふれるカントであれば(カントはこうしたことに関しては「すべての人の見解が一致している」と言うのだから)、これらを偽造や剽窃(悪い模倣)として、認識を拡張する契機を与えないとして、われわれが自然に対して感ずるようなモラル的関心を生まないとして、つまりは‘ホンモノ=ネイティヴ’ではないとして、切り捨てることだろう。だが問題はまさに、カントの天才の定義に従う限りでは、そうした区別が不可能になることにこそある。というのも、たとえば、もしカントが言うように‘ホンモノ’がコピーされ得ないものなのであれば、‘コピー’は‘ホンモノ’が与えられていないときでも‘コピー’と見なされることだろうし、外国ではよく知られているが国内ではあまり知られていない作家の‘コピー’が国内で‘ホンモノ’とみなされるなどということもないだろうからだ。
 ユーモアをまじえてというか悪ノリというか、‘あたかも〜のように’というアナロジーが『判断力批判』において一つの原理をなしていると批判するデリダは、カントにあっては、良い模倣と悪い模倣、模倣と偽造の区別がつかなくなっていることを次のように指摘する。「良い模倣と悪い模倣、良い反復と悪い反復。これらを関係づける微妙なニュアンスは、模倣と偽造との対立、すなわちNachamung〔模倣〕とNachmachung〔偽造〕という対立のうちに、簡潔に示唆されている。〔両者の〕隔たりは捉えがたい。この捉えがたさは、それにもかかわらずたしかに全的なものである。そんな捉えがたさは、シニフィアンのレベルにおいて、反復されている。つまり、一字を除けば完全なアナグラムとなっている、という点において、模倣するのであれ、あるいは偽造するのであれ、いずれにしても反復されている。」この呪文の意味は、要するに、個別の事例や規則の外部に‘規則を生み出すための規則’などというものはない、ということである。つまり、〈天才の理念、第二の自然〉なるものは反復可能な、技術による産物に“おいて(によってで)”しかない、ということである。(とは言えこのことは、「天才」が反復可能な、技術による産物“で”しかないということを意味しない。まして、作品に描かれたものについて作者がすべてを代弁し、説明する責任を負わねばならないことを意味しない。)反復不可能性とは、コピーされ得ないのは、模倣するものと模倣されるものという次元の違いにおける反復行為そのもの、である。
 こんなことは当たり前の結論であるようにも思える。だが、経験論(〈循環的経済=諸技術〉、および〈力学的=機械的〉必然性、学知)を超出するような真理(自由)を規定しようとするカントにとって、これはあってはならない結論である。同様のことが、たとえば批評家のロザリンド・クラウス(そして彼女が依拠するロラン・バルト)において繰り返されていると、私は思う。(ロザリンド・クラウスは実はデリダにも言及しており、ここでデリダを読んでいるのはそのためばかりではないにせよ、そのためでもある。)だが、バルトやクラウスへの言及は後回しにして、当座の問いに向かってすすめよう。(つづく)


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