2009-11-01から1ヶ月間の記事一覧

作品について 8

(つづき) 作品固有の次元とは何か。この問いに答えるために、私はここで芸術と非芸術との境界線を引き直すことを試みる。境界線を引くために参照されるテクストは、アンドレ・ルロワ・グーラン(1911〜1986)の『身振りと言葉』*1である。*2 『身振りと言葉…

作品について 7 + 11/26改(青字部分)

(つづき) なるほど、『限界芸術論』の難点は、論議するにはあまりに脆弱であるような区別によって、自らの論を構築していることにある。すなわち、専門家の芸術および大衆の芸術に限界芸術を対置するという区別であり、限界芸術を「専門家」に対置される「…

作品について 6

(つづき) ドゥボールの理論に従うなら、自由*1は自由な労働や消費を生きる主体においてのみ生きられ得るものであって、制作物(作品)が自由を与えるということはない。鑑賞における解釈の自由は許されるのかも知れないが、‘忠実な’鑑賞において開示される…

作品について 5(2016改)

(つづき) 簡単に言って、「思索の暴力」ないし資本のエコノミーに従属させられた文化・文明に対し、ハイデガーは資本主義(技術文明)に対抗する限りでの国家および民族共同体を擁護し、ドゥボールは資本主義(スペクタクル)に対抗する限りでの諸個人の自…

作品について 4

(つづき) 資本主義生産物に対する批判を芸術作品に適用することが、いったいどのようにして、どのような意味において、妥当なものとなるのか、それが未だ問題である。いったい、先に整理した区分において第二のものであった芸術の「スペクタクル」を批判す…

作品について 3

(つづき) 「スペクタクル」とは、ギー・ドゥボール(1931〜1994)の著書『スペクタクルの社会』*1において、資本主義経済や支配的階級層を批判するために用いられる概念である。こうした批判がなぜ必要とされるのか、その答えは、この書物においては「スペ…

作品について 2  11/3改

(つづき) 「作品」とは、自らの本性において保護され守られるという自由のことであると、そう考えた或る哲学者について。 建てること、住まうことは、ハイデガーにとって「存在」の真理である。既に別の記事で確認したように、ハイデガーの「存在」が問題…

作品について

楳図かずおの漫画『夏の終わりに』(1969)*1にはどんな目的があるのか?この漫画は読者への励ましでもないし、怒りでもないし、美談でもない。泣けるわけでもない。そこにあからさまなメッセージと呼べるようなものはない。教訓ではないし、物語が事実に基づ…