作品について 7 + 11/26改(青字部分)

argfm2009-11-23

(つづき)
 なるほど、『限界芸術論』の難点は、論議するにはあまりに脆弱であるような区別によって、自らの論を構築していることにある。すなわち、専門家の芸術および大衆の芸術に限界芸術を対置するという区別であり、限界芸術を「専門家」に対置される「非専門家」による芸術とする区別である。はたして、常に、作品(ないし限界芸術)のみからそれが「専門家」によるものなのかそれとも「非専門家」によるものなのかを、判断することは可能だろうか?その背後にあると想定される共同体が、閉じたものであるのか開いたものであるのかを、判断することは常に可能だろうか?論説としての『限界芸術論』の分かりにくさは、このようなあまりに性急な対立関係の演出、つまりその政治化に起因する。政治的なるものが存続するための闘争、すなわち、まず、敵の形体(輪郭)ありき、そういった疑念はつねにつきまとう。何を敵とするか・自らが何でないかの境界線を明確にすることに基づいて限界芸術を定義しようとするならば、----それはおそらく、これまで為された最も一般的で影響力のある読解であるが----、我々は、限界芸術の意義および批判対象を見失うことになりはすまいか・・・・。なる、と私は思う。『限界芸術論』の性急な政治化によって問われずにいるのは、芸術とは何か、という問いであり、芸術を否定項として持つ芸術である「限界芸術」とは何か、という問いなのである。
 とは言え、様々な弊害を帰結するにも関わらず、この区別を私がここでしつこく追わない理由は、鶴見が限界芸術として見出したものを事例や先行研究に則して定義しようと試みるならば、『限界芸術論』におけるその政治的境界線を改めて引き直すことができると考えるからである。我々は、鶴見が設定した敵の形象(輪郭)に引きずられる必要はない。このとき、芸術と限界芸術の区別は我々には馴染みのものとして顕れる。すなわち、「限界芸術」とは生活一般にまで浸透した諸々の技術であり、生得のものであれ慣習として身につけたものであれ身体の反射的運動であり、動物の声、事物の音、要するに、批判対象である歴史的に形成された共同体の物語に馴染まないとされる者であり、事物、独立した時間ないし出来事である。
 限界芸術に期待されることとは、「芸術の意味を、純粋芸術・大衆芸術よりもひろく、人間生活の芸術的側面全体に解放する」ことであり、そのことによって「芸術作品」が「芸術作品」であることの根拠を問う----あるいは根拠づける----ことである。限界芸術は、芸術作品が「作品」である限り前提とせざるを得ない普遍性(受け取られる時代や場所を特定できず、宛先が特定され得ないということ)を問い質すことで、作品を作品たらしめる力の恣意性(その内部においては合理性と映じるような)を暴くがゆえに、脅威となる。限界芸術は、個人の利害を離れたサービス (またはこれを要請するもの)である。円朝の怪談におけるおばけの役割を論じつつ、鶴見は次のように書く。おばけとは、「社会的保障をもっともひどく欠く集団に対して、法制的また実力的援助はできないまでも、とにかく無意識にたいしてつよくはたらきかけて、ある種の保護を与えようとする社会全体の利益代表としての超自我のはたらきである。」
 限界芸術が[限界芸術としてではなく]芸術作品として芸術作品を問い質さねばならない理由とは、限界芸術なるものの位置づけが、芸術が自らの利益を引き出すために自ら引いた境界線から帰結する社会的・政治的なポジションだからである。この境界線は限界芸術とされる存在にとって不当であり、芸術にとっては利益を生み出す。たとえば、限界芸術を否定項として持つことによる価値(理念)創出の占有があり、現前する芸術作品と共に提示される署名の占有があり、現前する枠による目的の占有がある。パクリ、のぞき見、「スペクタクル」、搾取、要するに「格差」であり支配権の占有・・・・こういった罵詈雑言は、確かに、芸術作品に投げつけられて然るべきであるが、同時に、限界芸術は芸術の外部を、芸術作品とは無関係で没交渉なものとして目指すわけにも行かないだろう。また、新たな支配を生み出すだけの支配の占有を目指すべきでもないだろう。柄谷行人が書いているように*1、資本=共同体=国家が三位一体であり不可分なものとして相互を利するよう機能するのであれば、ここで問われるべきは境界線であり、〈普遍性=遍在性〉である。
 ここで改めて問題を立て直すならば、しかし、芸術と社会との絆を取り戻すという鶴見の試みにおいて、芸術を現実との直接的な結びつき(現在)および有用性に限定してしまうことは、はたして芸術と社会との関係を十分に論じ得たと言えるだろうか?限界芸術は未だ作品たり得ない。限界芸術は現在において現れ、現在において滅する。言い換えれば、現在を超えて生き延びることはない。作品が作者の意図も社会の意志も超えることがあり得るということ、作品それ自体が与える出来事、すなわち作品固有の次元(メディウム、形式などなど)をどう考えるべきか。どのようにして、特異な出来事としてそれを尊重することが可能になるのか。これら一連の問いはハイデガーによる『芸術作品の根源』を読むにあたって我々が考察したそれであり、*2また、ドゥボールが問うた「商品」(「相対的剰余価値」)の問題でもある。(つづく)




徐い[い=さんずいに胃](『徐い画集』浙江人民出版社 より)

*1:『世界共和国へ----資本=ネーション=国家を超えて』 岩波新書

*2:参照http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080711/p1