作品について 6

argfm2009-11-20

(つづき)
 ドゥボールの理論に従うなら、自由*1は自由な労働や消費を生きる主体においてのみ生きられ得るものであって、制作物(作品)が自由を与えるということはない。鑑賞における解釈の自由は許されるのかも知れないが、‘忠実な’鑑賞において開示される自由、制作物なしには与えられ得ないような自由というものはない。つまり、「作品」は不可能である。だが、『スペクタクルの社会』は、予めの身振りの代理として、欲望の代理として表象されているドゥボールの作品であり、商品ですらある。民衆の日々の生活においてテクストが生かされること、それこそがドゥボールの望んだことだったわけだが、「民衆」の直截の経験を超出するような何かがないのであれば、それは読まれることもないだろう。そうした「超出」はどのようにして発生するのか、そのことについてドゥボールは、少なくともその理論においては、示すことができずにいる。(固有の文脈を超出するための「転用」とは、予めの身振りの代理=欲望の代理としての表象以外の何物でも無い。)
 その問題を継承するとしても、ドゥボールによる批判の根拠を支持することは、その論理においても、その目的から見ても、難しいと私は考える。したがって、引き続き資本主義経済と芸術活動との類同性を検討することが問題である。[権利であれ手段であれ]持つ者と持たざる者との間の格差の拡大、資本増殖のための諸活動の統制、資本主義経済外部における労働ないし活動の、内部における労働への従属、などなど、こうした諸問題ないし暴力はいったいどのようにして、芸術活動そのものの問題ないし暴力でもあり得るのか。ここで、ドゥボールとよく似た問題意識を共有しつつも、作品を別の視点から問い質している鶴見俊輔の『限界芸術論』*2を検討しておこう。
 『限界芸術論』は、芸術活動の発生する条件を模索し、芸術活動を、必然として、かつ、或る意図として解するような芸術論である。限界芸術とは、多くの場合それ自体では「作品」ではない。たとえば「手紙」や「落書き」や「生け花」、「習慣」や「しぐさ」、「鼻歌」や「盆踊り」などは、鶴見が挙げる限界芸術の事例である。他に、変体少女文字(丸文字)や顔文字であるとか、日常生活に生かされた漫才のボキャブラリーであるとか、そういったものも、限界芸術と呼ばれ得よう。誰が言ったか始めたか知らないが、しかし、人々の間に漂流し、姿を変えつつ生き延びる声なき声、或る意図。限界芸術とは必ずしも作品ではないが、しかし、芸術の起源である。この本の中で、限界芸術が作品でないことの理由を鶴見は示すことなく済ませているが、限界芸術が作品でないことの理由は、彼が限界芸術として列挙する事例および、彼が限界芸術論に先行する研究として認める諸著作*3を鑑みるならば、容易に理解し得る。限界芸術が作品でないことの理由は、作者が同定されておらず、かつ、作品としての変更不可能性が保証されていないということにある。限界芸術は、美術館で見ることのできる作品のようには、作者が分かり、作品に手を触れたり作り替えたりすることが許されていないというものではない。*4
 では、こうした名もなき流浪の民すなわち限界芸術が、作品を問い質す契機であり得る理由とは何だろうか。批判の動機を見ておこう。彼が批判する「専門家」による芸術、「マスメディア」による芸術とは、生産手段(作品であれ言説であれ)を占有する者や支配的階級層を目的とした芸術の謂である。たとえば、鶴見が専門家のための芸術であると位置づける「純粋芸術」は、次に挙げるいくつかの点から批判される。一つには、それを大都会の展覧会においてしか見ることができないという制度上の、芸術鑑賞における中心と周縁の格差という問題。(たとえば、欧米それも文化的中心を担うとされる大都市、そうした場所に行かねば経験することのできない作品が多く存在する。)なるほど、もし芸術が普遍的であり人々にぜひとも必要とされるものであると言うならば、あるいは、当の芸術作品に触れる以前と以後では世界は異なると言うならば、この格差は「純粋芸術」にとって深刻な問題として受け止められるのでなければならない。二つには、それが、西欧文明の歴史において権威づけられることなしには存在しないということ、つまり、アーカイヴおよび批評研究という名の芸術裁判において、管理人も裁判官も、判例も法も、すべて支配的階級層の歴史およびその言説の下にあるという問題。これは、言い換えれば、芸術作品の普遍性においてではなく、西欧における芸術作品の歴史(範例としての作品、議論、法)に基づいてのみ芸術作品がそれとして認められるという問題である。ジェンダーの問題などもここに含まれる。先に挙げた問題とひとつながりのものであることが理解されよう。特定の物語(ないし視点)を参照・共有することなしには読解不可能・経験不可能であるような「作品」を、にもかかわらず万人にとって必須であるような「作品」としてあらしめている権力こそが、鶴見による批判の対象である。(これは、「芸術」という語がそもそも西欧由来のものであるということとは別の問題である。)
 つまり、『限界芸術論』にとっての批判対象は、作品という存在であるよりは、作品を作品たらしめる力の内実にある。*5
 「限界芸術」が作品を問い質す契機であり得る理由とは、それが「専門家」や「マスメディア」といった、生産手段(作品であれ言説であれ)を占有する者および支配的階級層による、彼らの自己存続を賭けた利潤追求という循環経済の、署名と枠からなる作品という形体とは独立の、その外部にある時間ないし空間であり、出来事だからである。生活の必然から生まれた、生産を担う主体に左右されることのない反復可能性、それが限界芸術の条件である。限界芸術は、「芸術の意味を、純粋芸術・大衆芸術よりもひろく、人間生活の芸術的側面全体に解放するときに、はじめて重みをもってくる」。限界芸術それ自体の普遍性が未だ問題であるにせよ、少なくとも、限界芸術は制作物の普遍性を生産者の利害とは無関係に問い質す権利を有する。(つづく)

*1:ドゥボールにとっては労働や消費の自由という名目の、自己の真の生を目指した解放のこと。

*2:『限界芸術論』鶴見俊輔著  筑摩書房単行本、ちくま学芸文庫の双方を併せて参照した。

*3:柳田国男柳宗悦

*4:言うまでもなく、作品に手を触れたり作り替えたりしても良いという指示のある作品についても、例外ではない。たとえば、ここに落書きせよ、であるとか、部分を持ち帰って良いなどの指示がある作品であっても、その指示自体を作り替えることは出来ない(作り替えてしまえば別の「作品」となる。)。

*5:一方で、鶴見自身はアナーキストを志向するとは言え、こうした批判は、理論上は、排外主義・自民族中心主義と容易に結びつく。これは、「模倣」と「受動」(型)を暴力による抑圧と短絡してしまう、鶴見の弱点に因るものとも言える。他者への関心ないし学習や習得という契機を評価できない(しない)鶴見には、総じて、普遍性や固有言語の差異を思考することへの嫌悪があり、一切を局所的なコンテクストにおいて判断する悪い癖があるように、私は思う。たとえば、鶴見が用いる「純粋芸術」や「限界芸術」という概念の外延が今日の目からすれば支離滅裂であることなどは、その一例である。ちなみに、「大衆芸術」についての鶴見の批判は、「予め代理された身振り」としてこれを批判したドゥボールによる議論とほぼ同じである。ゆえに、ここでは敢えて言及しなかった。