作品について 5(2016改)

(つづき)
 簡単に言って、「思索の暴力」ないし資本のエコノミーに従属させられた文化・文明に対し、ハイデガーは資本主義(技術文明)に対抗する限りでの国家および民族共同体を擁護し、ドゥボールは資本主義(スペクタクル)に対抗する限りでの諸個人の自由意志を謳う。なるほど、ハイデガーは反復ゆえに「真の」生が準備され、やがて開示されるのだと言い、ドゥボールは反復ゆえに「真の」生が失われるのだと言う。反復可能性と生(死)の関係を巡って両者はかように異なっており、この違いは大きい。だが奇妙にも、どちらにしても、彼らは「凡庸化」にあらがうものとしての作品ないし芸術活動を、共同体の歴史であれ個人の欲望であれ、「真の」主体による統御の下に置くことを主張しているのであり、この点で彼らは真理を共有しているかのように見える。それがお互いを知ることなく、全く異なる利害関心の下でなされた偶然の一致であるかのように見える限りで、なおのことその真実らしさは高まるように思われる。いかにして「凡庸化」された世界から「真の」世界を奪還するか、その闘争の絶対的な礎石であり根拠となるのは、両者共に、各私性のかけがえのなさ(「本来的な死」)である。個としての主体が「真」であることは、各私性のかけがえのなさによって裏打ちされている。偽の人生・夢見る操り人形としての人生(死一般)と、本物の人生(本物の死)との対立がある。この対立は筋の通ったものかどうか、価値の振り分けに異議を挟む余地はないか、それを問題にしたいのであるが、その前に、まずはどのようにして各私性が「真の」主体となり得るのか、その生成(?)のプロセスを、改めて検討しておこう。
 死の実存論的分析としてのハイデガーによる思索に従うなら *1、死とは代替不可能性の謂であり、各私性のかけがえのなさである。このとき、死についての実存論的分析および死の概念は、あらゆる学に対する一次性と独立性を持つがゆえに、普遍的である。それは文化や道徳、すなわち政治にも、神学や形而上学、すなわちイデオロギーにも無縁である。死についての生物学・心理学・弁神論・神学などの問いに対して、死の実存論的分析は方法的に優位を占めている。(分かりやすく言えば、ちょうど、固有名がその翻訳不可能性ゆえに〈普遍的=遍在的〉であると言われるのと、これは同じ論理である。)
 ところで、各私性の特異性は、誰かに代わって死ぬ(あるいは生きる)ことはできても、誰かの死を代わることはできないという論理に基づいている。したがって、各自の死を死一般(単なる生命体の終わり、抽象化された労働力、資本と化した人間・動物・自然)から区別することなしには、そのかけがえのなさ(代替不可能性)を言うことはできない。(たとえば、「人は死ぬ」という文は単なる生命の終わりを示しているに過ぎないが、「誰某が死ぬ」という文は各私性の終わりを示している。ハイデガーであれドゥボールであれ、この区別を遵守することに違いはない。)ハイデガーにおいてこの区別は、「故人」と「死者」との間の区別として考えられている。ゆえに、「存在」を理解する者(その「声」を聴くことが出来る者)、我々と生活を共にした者、我々の文化や我々が帰属する諸集合と共にあった者に対してのみ、そのかけがえのなさ(各私性)を認めることが出来る、ということになる。「真の生」の価値は、ある特定の、固有の集団が存在することによって支えられているわけである。それが民族主義者であろうと前衛集団であろうと。ハイデガーが言うように、「本物の死」は「反復可能性」なくしてあり得ない。

 だが、代替不可能であるのは、我々の文化や我々が帰属する諸集合と共にあるような各私性(この私のこの生)ばかりというわけではない。「生命体の終わり」のみならず、およそ「存在」であるものすべて代替不可能である。ある特定の集団が消滅したからといって、そこに所属していた人の人生が終わると限ったものでもないし、その人の人生が無価値になるわけでもない(一時的な主観においてそのように現象することがあるとしても)。したがって、代替不可能性(かけがえのなさ)によって「真の生」を価値づけることには論理の飛躍がある。
 ドゥボールの求めた倫理を簡潔に言うなら、「決断」の自由であろう。なるほど一般性からの絶対的な断絶というこの契機*2がなければ、作品は「我々の文化や我々が帰属する諸集合」における「真の」主体の恣意に基づくと見なされるほかないだろう。とは言え、こうした決断の構造それ自体は何か真や善を保証するものでないことは明白であるし(決断の瞬間は「狂気」であるから)、「一般性」なるものをジャンピングボードとして常に必要とする状況から逃れることもできない。加えて、自己決定の自由(決断)が、つねに「真の」生であるかどうかという問いは消えることはない。なぜなら決断の意志が常に既に代理されたものである可能性はいつだって否定できないからであり、ハイデガーの言うように人間なる存在がそもそも複数の様々な「精神」の受肉によって成り立っているならば、そもそも「真の」意志を一つに定めることすら難しい(暴力的な排除を伴う)はずだからある。「真の」自由は果たして芸術家の自由な意志(決断)に求められるべきなのかどうか。ドゥボールが批判すべきだった「作品」とは、むしろこうした、作品背後の「真の」主体を想定することなしには成立しないような制度および制度の契約・結託ではなかったか。(つづく)

*1:存在と時間

*2:この契機こそ、カントが『判断力批判』において考察した「美的判断」すなわち、知には還元されない判断、すなわち「決断」である。この点(アポリア)については、後に改めて取り上げる。