作品について 4

argfm2009-11-07

(つづき)
 資本主義生産物に対する批判を芸術作品に適用することが、いったいどのようにして、どのような意味において、妥当なものとなるのか、それが未だ問題である。いったい、先に整理した区分において第二のものであった芸術の「スペクタクル」を批判するための根拠とは何なのか、次に確認しておこう。「商品」についての批判を芸術作品についての批判へと「転用」する中で、ドゥボールは芸術作品の経験を、「予め代理されてしまった経験」であると言う。ゆえに芸術は、欲望を与えつつ、作品を見る者からその真の「欲望」を奪うのであり、真の私、真の生、言い換えれば「死」(この私の固有な生)を奪うのだ、と彼は言う。『スペクタクルの社会』には、次のように書かれている。


スペクタクルが見えるようにする世界は存在すると同時に不在であるが、その世界は、生きられたもの[=経験]すべてを支配する商品の世界である。商品の世界は、そのようにして、あるがままの状態で示される。というのも、商品の運動とは、人間を他の人間から、そしてまた自分の生産物全体から遠ざける運動と同じものであるからだ。 (37節)」
自らの世界の運動の偽の中心で動けなくされた観客の意識は、自分の生が、自己の実現と自己の死に向かう通過点だと認めることはもはやない。自分の生を諦めた者は、もはや自分の死も自ら認めるはずがない。生命保険の広告がほのめかすのは、死による経済的損失の後のシステムの調整を確実に行わずに死ぬのは罪深い、ということばかりだ。そしてアメリカ流の死に方の広告は、その場合に、自分には生の外観をいちばん多く維持する能力があると強調するのである。それ以外のあらゆる広告の爆撃の戦線では、年をとることははっきりと禁止されている。誰にとっても「青春という資本」をうまく使うことが大切で、その資本をあまり使わなかったからといって、必ずしも投資資本の累積的で安定した現実を獲得できるとは言えないのだ。このような死の社会的な不在は、生の社会的不在と同一のものなのである。(160節より抜粋)」


 ドゥボールにとって、死の不在と生の不在とは同じことの表裏である。したがって、生(死)に対する自己決定という自由が、資本主義経済や支配的文化に抵抗するための根拠の一つとなる。(事実、彼の最後は望まぬ治療を拒絶するための自殺である。)だが、この根拠を検討する前に、ドゥボールの論説と混同されるべきではないいくつかの帰結を予め却けておく必要がある。
 ドゥボールの論説は一見、椹木野衣が言うところの「思考の被占領性」と同じことを言っているかのようにも見える。椹木が抱いているようなこうした観念からどのような言説、どのような実践が導き出されるのかを理論的に予告することは決して難しいことではない。言説としては、中心的・支配的な文化に対して周縁の文化を取り上げること、制作としては、真の私の生活(あるいは「真の歴史」--岡本太郎の縄文のような--)と密接に結びついた‘リアルな’経験を伝達すること、すなわち「死」(この私の固有な生)の芸術、‘生=芸術’、これである。なるほど、実存主義の影響から生の解放と歴史の奪還を謳うドゥボールは、思想的には、彼らと重なる部分があると言わねばなるまい。だがドゥボールは、正しくも、芸術業界に留まりはしなかった。いまや日本ではメディアやアカデミズムや美術館にその位置を占め、ひとつの芸術産業になっている‘疎外の表象’ではなく、ドゥボールにとっては「状況の構築」こそがその狙いであった。彼の書き付けた文字は人々の日々の行為において、実践において、用いられねばならないし、そのときにのみ、彼の文字は意味を持つ。「状況の構築」、都市への政治的介入(「心理地理学」)こそが芸術の正しい役割である。*1
 誰が言ったか始めたか知らないが、しかし、人々の間に漂流し、姿を変えつつ生き延びる声なき声、おばけ、或る意図、それが『スペクタクルの社会』という書物のあるべき姿である。この点で、ドゥボールの目論見は限界芸術に酷似する。だが、『限界芸術論』が、作品としてまとまったかたちで観察されることのあり得ない「限界芸術」に対して直接言及し得ず、ある作品の内部に限界芸術を見出すというアプローチに留まる限りで作品の流通する過程(芸術業界の経済的構造)を批判できずにいるのに対して、ドゥボールらシチュオシアニストは都市の無意識としてのインフラに働きかけることで、事物に働きかけることで、批判を生産に結びつける。ドゥボールは「型」であればなんでも非難する椹木や鶴見とは異なり、事物を組織することを必ずしも放棄していたわけではない、彼の活動には力としての事物という認識が不可欠だったのである。「互いに連合した独立の時間が同時的に存在するようなモデル」を作ることが、彼の課題であった。
 以上で議論のための準備作業を終え、本題に移ることにする。ドゥボールは芸術作品を予め観客の身振りを代理する(欲望を代理する)ものと考えるがゆえに、作品を却ける。彼にとっては、このことこそが芸術業界の自己目的化した経済的構造を生み出すのであり、支配の存続を帰結するのであって、すべては作品なる存在の排除に懸かっている。作品は、自らが経験したことのないものを、他者へと伝達する。すなわち、嘘をつく。作品は支配者と専門家達の用語で満ちている。先取りされた身振りの代理は、そのまま世界の虚[嘘]構化、「凡庸化」を意味する。
 だが、彼が考える自由なコミュニケーションのためには、あるいはそもそもコミュニケーションなるものが成立するためには、文字であれ構築された状況であれ、それが読まれたり用いられたりするためには、「身振りを予め代理する」契機(媒体)は不可欠である。彼のテクストである『スペクタクルの社会』もまた、それが「身振りを予め代理する」のでなければ、すなわち反復可能性、読解可能性がなければ、読まれること(使用価値)すらあり得ない。作品の使用価値とは言葉に従って行為したり、解釈を引き出したり美を堪能したりすることにあるのではなく、ただたんに、使用する主体に関係なく読めること、聴けること、見ることができることという、分節化された時間の経験可能性にある。*2言葉に従って行為することや、解釈や美の経験は、他のものの他のものによる代理であり表現であるのだから、むしろ交換価値である。(したがって、ドゥボールが望んだようなテクストから行動への移行(実践的使用)なるものは、彼がそう考えていたのとは異なり、テクストの使用価値ではなく交換価値である。)「状況の構築」が目的であるならば、予め観客の身振りを代理すること(代理表象)は避けられない。「コミュニケーション」とは、自己の直截な経験をはみ出すこと(交換価値)でなければ何ものでもない。そもそもそれこそが、シチュオシアニストを観念的な‘疎外の表象’から区別する力であったのだから。ドゥボールもまた、自らのイデオロギーにおける資本家であり、専門用語の使い手であり、部分労働を組織して全体を得る作品(商品・必要の創出)の責任者である。
 したがって、「観客の身振りの代理」および生(死)に対する自己決定という自由は、芸術業界存続のための循環的経済(私の区分においては二番目に挙げておいた「スペクタクル」)を批判する根拠たり得ない。問題はそこにあるのではない。(つづく)

*1:ドゥボールおよびシチュオシアニストらの活動は、前掲書『スペクタクルの社会』所収の、木下誠による訳者改題に詳しい。なお、’58年から’69年にかけて刊行された『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌全12号全文が、6分冊に分けてインパクト出版界から同訳者によって刊行されるようである。

*2:たとえば、フランス語の読めない私にとってフランス語で書かれたテクストに使用価値はないが、だからといって当のテクストの使用価値が消滅するわけではない。