作品について 3

argfm2009-11-05

(つづき)
 「スペクタクル」とは、ギー・ドゥボール(1931〜1994)の著書『スペクタクルの社会*1において、資本主義経済や支配的階級層を批判するために用いられる概念である。こうした批判がなぜ必要とされるのか、その答えは、この書物においては「スペクタクル」を理解することと同時に進む。「スペクタクルとは○○である・・・、○○はスペクタクルである・・・、」というように。この書き方は戦略的なものであって、ドゥボールは自ら「転用」であるとか、「弁証法的文体」であるとか名付けている。つまり、「スペクタクル」とは様々な理論の結節点であり、様々な概念の置き換えられる場所であるような語である。この意味で、「スペクタクル」に固有の内包(定義)と呼べるようなものはない。戦略的なリンクであり、当てこすりであるような、諸理論のアレゴリカルな「転用」が目的とするのは、諸理論の限界であると一般に見なされているようなそれぞれの帰属領域を超えて、異なる領域なり異なるコンテクストなりにおいて、声を送り届け、響かせることにある。「転用」とは、信用を高めたり権威づけたりする目的で乱発されるおヒネリのごとき「引用」とは異なり、むしろ、理論の「自律性」*2を破壊するものなのだと、ドゥボールは書いている。「弁証法的文体」によって書かれた『スペクタクルの社会』の中で、「スペクタクル」とは、主にマルクス経済学から芸術へと張られたリンクであり、送り届けられた声である。
 では、「スペクタクル」とは何か、それは何を批判しようとしているのか。ドゥボールは主にマルクスエンゲルスの諸理論を「転用」することで、「スペクタクル」を批判する。ドゥボールによれば、「スペクタクル」とは、労働の分離および労働者同士の疎遠さや孤立(「分業」)を表現するものであり、同時に、我々の生活を資本主義経済に従わせ方向付けるような幻影(「分離」)である。*3「分業」と「分離」がドゥボールにとって批判の対象である。ここで「分業」と「分離」が問題とされるにあたって大前提となるのは、資本主義経済における、生産手段を持つ者と持たない者との間の根本的な格差であり、こうした格差(落差)をエネルギー源として自律的に運動し続ける循環的経済の在りようである。
 ここでドゥボールがその「転用」によって参照を促すマルクス経済学について、その資本主義の循環的経済への分析について、ドゥボールの視点に沿うよう心がけつつ、簡単に記述しておく。*4資本主義経済において、生産手段を持たない労働者は自らの労働力を売って生活するほかないわけだが、生活は商品を買うことなしに成り立たないのであるから、労働者とは生産者であると同時に消費者であるという経済的循環構造に支配された存在である。このとき、労働者は構造的には、自分たちが生み出したモノを自分たちで買い戻していることになる。(労働者の主観においてはそのようには現象しないとしても。)ところで、資本制生産物において、労働者の生産物はそれぞれの部分労働(「分業」)を組織することによって生み出された商品であり、労働者が買い戻す商品は、いわば‘組織料’ないし‘販売手数料’(「相対的剰余価値」)が上乗せされた値段になっている。(商品は「社員」の所有物ではなく、「会社」の所有物である。)こうした「相対的剰余価値」が資本制経済を循環させ自律させるエネルギー源であるが、ここにおいて、生産手段を持つ者と持たない者との間の根本的な格差がある限り、労働者は必然的に、労働においても消費においても、生産手段の存続および利潤の創出が先行した資本の意向に従わざるを得ないわけである(「分離」)。労働者が会社をクビになることが、会社が労働者をクビになることに先行する。こうした状況下にあって、すべての者にとって平等かつ自由であるような生産活動、経済活動といったものは幻想でしかない。
 ドゥボールの目には、「分業」および「分離」と不可分である資本主義経済は、労働者同士での労働の自由な結びつきを妨げるものとして、および、消費における自由(多様性)を妨げるものとして映る。ドゥボールにとってマルクスの重要性は、労働者の保護(たとえば賃上げ闘争や福祉の充実)にあるのではない。だからこそ、訳者である木下誠が紹介しているように、『スペクタクルの社会』は5月革命を予言した唯一の書と言われるのである。「スペクタクル」に対する批判は、生産を労働者による労働者のための自律的な手段として取り戻すことに結びつき、消費を多様な「コミュニケーション」として取り戻すことに結びつくのでなければならない。だが、そうであるならば、常識的に考えて、どれほど少なく見積もってもその理念においては、芸術とはおよそ資本主義経済にもっとも馴染まないものではないだろうか?芸術とは、資本制生産物から逃れた自律的生産と多様性を誇示することが期待されてきたのではないだろうか?いったいなぜ、資本主義に対する批判が芸術に対する批判へと「転用」され得るのか?
 この問いに対する答えは簡単なものではない。というのも、芸術と経済をリンクさせるドゥボールの論説には、二つの区別されるべき意見があり(もっとあるかも知れないが)、それらを混同すべきではないと思われるからである。これは「スペクタクル」に定義を与えない彼の「転用」ないし「弁証法的文体」という戦略が必然的にもたらす混乱であると、私は考える。ドゥボールの分かりにくさはここに起因し、必定、答えは少々込み入ったものになる。まずは、ドゥボールによる異なる[少なくとも]二つの「スペクタクル」とは何か、次に整理しておこう。
 一つには、「スペクタクル」について、これを、資本主義経済の一環としての芸術であると見なす彼の意見がある。「スペクタクル」の芸術は消費者の欲望を創出しつつ方向付け、資本増殖のための循環経済へと人々を巻き込む。知らされない真実があり、我々の行きたい場所は常に既に人混みでごった返している。テレビ番組や企業広告、「花形商品(スター)」などは「スペクタクル」である。エコカー減税AQUOSのCMなどは、「スペクタクル」である。湾岸戦争時におけるメディア報道のざまを見よ。「スペクタクル」という幻影こそは、労働者を商品の生産者にして消費者というポジションに留め置くための条件である。ここでドゥボールによる批判の対象は、芸術と資本主義経済の結託にあり、資本増殖のための利害関心に則した、生産手段を占有する者による情報の選別と排除にある。
 二つ目には、芸術作品を資本主義経済同様の、生産手段の占有や「コミュニケーション」の「一方通行」によるものであるとして、これを断罪するという彼の意見がある。ここでは、批判の対象は具体的な経済活動ではなく、芸術活動そのものへと向けられる。つまり、芸術活動が存続するその経済的構造を分析し、これを批判しているわけである。誰が、あるいは何が利潤を得るのか、作品から展示、鑑賞、批評、研究、収集、アカデミズムを含めた芸術活動なるものは、いったい誰による誰のためのものなのか、それが問題となるべきだろう。こうした視点からすれば、著作権(オリジナリティ、差異化)などは、芸術屋のための、芸術業界存続のための「相対的剰余価値」であるに過ぎない。美術史などは、所詮支配的であった或る地域の、或る階級の人々の、主観に則した物語に過ぎない。時代も民族もごっちゃにされたアフリカ美術の扱いを、決して歴史に名前の出ることがない江戸の版画家達の扱いを見よ。*5芸術活動を支配者から、専門家や大学人の手から取り戻さなければならない。「凡庸化」の外部を、質を、場所や環境の固有性を、歴史を、取り戻さねばならない。鶴見俊輔の『限界芸術論』とドゥボールの『スペクタクルの社会』が酷似するのはこの点においてであり、彼らにとって、芸術は「交換価値」としてではなく、「使用価値」として尊重されるべきものなのである。それは鑑賞されるべきモノではなく、為されるべき行為である。ドゥボールは次のように書いている。「コミュニケーションの言語がなくなったという事実、それこそが、あらゆる芸術を解体し、完全に消滅させる現代の運動*6が積極的に表していることである。この運動が消極的に表しているものは、共通言語を再び見出さねばならないという事実である。それも、もはや一方的な結論----それは、歴史的社会の芸術にとっては、常に遅れて到来し、真の対話なしに経験したことを他人にむかって語り、この生の欠陥を認める----のなかにではなく、直接的な活動と自分自身との言語とを己のうちに結集する実践のなかにこそ発見せねばならない。詩的-芸術的作品によって表象されてきた対話の共同体や時間との戯れを、実際に所有することが重要である。 (187節)」「独立した芸術が華やかな色彩でその世界を描く時、生の時間は既に老いたものとなっているのであって、華やかな色彩によってもその生の時間は若返らされはせず、ただ思い出のなかで呼び覚まされるだけである。芸術の偉大さは、生の沈潜の時にはじめて現れ始めるのである。 (188節)*7*8
 以上二つの「スペクタクル」があることになるが、第一の「スペクタクル」について、ここで詳しく論じる必要を私は感じない。それは今日もはや周知の事実であり、人々はすでに「スペクタクル」に対抗し抵抗するような批判活動を日々行っている。実践あるのみであって、ここに異論を挟む余地はない。だが、第二の「スペクタクル」については、未だおおいに、議論の余地がある。(つづく)

*1:スペクタクルの社会』 木下誠訳 ちくま学芸文庫 

*2:ここで彼の言う「自律性」とはむろん、概念の誤用・乱用であって、誤解を免れない。理論は「自律性」を持つからこそ、適用される領域を限定されないのであるから。

*3:経済や国家の自己保存を目的として、家庭や共同体、教育(知)などが組織される、ということでもある。

*4:マルクスドゥボールに従って誤読するという意味ではない。

*5:たとえば、『art since1900』と題された美術史のテクストに示された「歴史」を参照されたい。著者は、ロザリンド・クラウス、ハル・フォスター、イヴ・アラン・ボア、ベンジャミン・ブックローである。

*6:ここでドゥボールダダイズムを念頭に置いていると思われる。

*7:ヘーゲル『法の哲学』の中の一節、「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ・・・」のパロディ、「転用」。ここでは、体験は認識に先立ち、認識した時には既に体験することはできない、というほどの意味で用いられているようだ。

*8:前掲書