装飾について その2

argfm2012-03-12

 大学を出て23歳の1856年、モリスは建築家ジョージ・エドモンド・ストリートの事務所に就職。ここで建築とプロダクトデザインへの情熱を授かるもわずか9ヶ月で退社したのち、しばらくぶらぶらしていたらしい。ぶらぶらしている間に友人のロセッティ*1らと共に壁画の仕事をしたり、自作の椅子や絵画などに取り組んだりしている。25歳の1859年、無職のままジェーン・バーディン*2と結婚。事務所で知り合って以来の友人フィリップ・ウェッブ*3とともに、自邸(「レッドハウス」)を建てる。ヨーロッパの「中流」とはこういうことなのであろう。いろいろな職種の友人達、すなわち、画家のロセッティとジョーンズ*4、建築家&プロダクトデザイナーのウェッブその他らが集まり、プータローモリスとともに新婚ほやほやモリス邸の内装を行った。レベルは高いが学園祭のようなノリの、いや、これこそ正しく文化祭と呼ぶべき行為なのかもしれないがそれはともかく、このとき集まったメンバーが中心になって「モリス商会」*5が設立される。「商会」は冗談でつけたらしい。ちなみに、モリスとその妻ジェーン、ロセッティの二男一女は、その後、モリスがジェーンとロセッティの関係を認めつつ友人でもあり続けるという(公には黙していたらしい)“前衛的な”三角関係に陥る。立ち上げといいもめ事といい、ほとんどロックバンドのノリである。いや、これこそ正しくバンドと呼ぶべき組織なのかもしれないがそれはともかく、建築、内装、工芸、家具調度品を売りにする。
 金の出所はモリスパパであったが出資者として経営にも責任を負わねばならなかったモリスは、デザイナーとして経営者として、理想と市場とのギャップに直面し続けた。後世の口さがない批評家の中には、彼をタダの商売人とまで言う者もいる。なるほど、当初はメンバーの平等を期して匿名でのデザインが約束事であった商会が、名の売れ始めたモリスとウェッブを専属デザイナーとして前面に打ち出すことになったのも、市場での競争に勝ち抜くためであった。皮肉にも、文人モリスが有名デザイナーとなったゆえんである。また、いくつかの廉価版を出すこともできたとは言え、手間暇かけた多くの商品が「民衆」の手の届かぬような高価格帯から出られないことに対する煩悶は生涯続いたようである。商売には社交界でのロセッティの営業力も貢献した。資本主義の原理に則り、労働者への支払いが競争価格に基づいて決められるのは当然のことであったし、鉱山の株による資金運用も行っていた。のちの彼の講演から察するに、さぞかし罪悪と感じていたのであろう。モリス商会が存続し得たのは、優れたデザイナーが魅力的な品を次々と発表できたことはモチロンであるが、同時に、モリスが経営者としてもしたたかなアイデアマンであったからである。資金繰りをモリスに任せっぱなしにする友人達との決裂から商会は再編に至り、以後、モリスとウェッブを中心にした職人集団となってゆく。
 ザ・モリスバンドの顛末はともかく、モリスは、自らもまた職人であるようなデザイナー、生産手段を所有する小規模生産者に徹することで、結果的に資本主義に抵抗し得る城塁を、あるいは資本主義の胃袋に内側から風穴を開ける術を、確保しつづけることができた。利潤を最優先に強制されるような労働や生産活動に抵抗する力として、商品を自ら作り自ら売る権利と能力が要求され、さらには自由な労働と道徳社会を調和させる美的理念として、「美術」(ないし「芸術」)が参照されることになる。*6モリスが主に手がけたテキスタイル(染色や織物)に関しては、モリス自身が資料を調査して失われた技法を調べ上げ、自らの工房で職人らと共に実験し、技術を教える役割を担った。文化的領土の確保、それがモリスの装飾美術の意味である。モリス晩年の文学作品である『ユートピアだより』*7に描かれた未来社会には貨幣による売買がなく、商品が存在しない。なぜなら、あらゆるモノを自分[達]で作って自分[達]で使うからである。自分[達]で作って自分[達]で使うぶんには、利潤を最優先に算出された労働や商品に、関わることなく済まし得る。*8 不老部落のような自給自足の共同体を作ることはモリスにはかなわなかったが、しかし、それはそれ、これはこれ、である。モリスの求めたような自由な労働リッチな作物を「民衆」が手にすることは、到達不可能な永遠の理想というわけでもない。たとえばかつては*9身の回りの日用品、今日では日曜大工や家庭農園、家事、または、タダで閲覧可能な論文や資料、記事、フリーソフトなどが可能性においては、そうである。「モリス商会」の商品には、購入者が自分で刺繍するための図案集というものもある。DIYスピリットである。そして、そもそもが「モリス商会」の出発点はそこ、自分[達]で作って自分[達]で使うこと(「レッドハウス」)にあったのであり、モリスは生涯みずからの幸福な青春時代を生き続けようとしたわけである。ちなみに「モリス商会」では、自分たちが使うために自分たちで作るモノもあったが、しばしばコストがかかりすぎたために商品化できず、図らずも(?)「自分で使うぶん」になってしまったものも少なくなかったようである。「根深くもセンチメンタルな社会主義者」、しかしながら、“I believe that art cannot be the result of external compulsion; the labour which goes to produce it is voluntary, and partly undertaken for the sake of labour itself, partly for the sake of the hope of producing something which, when done, shall give pleasure to the user of it. ・・・”。それを感傷と決めつけるのは、少し気が早いように思われる。(つづく) *10

*1:Dante Gabriel Rossetti 1828〜1882

*2:Jane Burden1839~ 1914

*3:Philip Speakman Webb 1831 ~ 1915

*4:Edward Coley Burne-Jones 1833 〜 1898

*5:1861年モリス・マーシャル・フォークナー商会設立。商会は1875年に解散、メンバーを入れ替えてモリス商会となる。ここでは必要な場合を除き「モリス商会」で統一。

*6:モリスは道徳、宗教、芸術を不可分のものと考える。

*7:1890 W・モリス 松村達雄訳 岩波文庫 

*8:この点で柳の民藝はモリスを受け継いでいると言えるように思う。民藝はそもそも、自分[達]で作って自分[達]で使うという状況において‘発見’されたものである。

*9:千差万別であるが。

*10:モリスについての伝記は、以下の書物によっている。『ウィリアム・モリス』リンダ・パリー編 多田稔監修 河出書房新社  、 『図説 ウィリアム・モリス ヴィクトリア朝を越えた巨人』 ダーリング・ブルース/ダーリング・常田益代 河出書房新社 、 『世界の名著 ラスキン モリス』「ラスキンとモリス」五島茂 中央公論社 、 『ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想』小野二郎 中公文庫