柳宗悦と芹沢銈介 その3

argfm2011-12-21

 柳は、まず「直観」によって事物の美を見出し、しかるのちに、よくよく調べてみるとそれが「正しく作られている」モノであることが判明するのだ、と言っている。彼は色んなところで同じことを言っているからいちいち引用しない。民藝の美とは、柳によれば、自然の合理性、環境風土との調和、労働作業の合理性および作物の機能性が一連の流れとなって結果するもののことであった。そのことをふまえた上で、柳の言う「美」は美男美女とか美味とか機能美とかの「美」ではない、ハッキリ道徳的な正しさのことである。柳はウィリアム・モリスに対して「正しき工芸の美を知らなかった」 *1としてその美意識を批判してさえいる。(英訳時にはFolk ArtではなくFolk Craftと自らは記していたようである。)まどろっこしくも混乱を呼ぶような「美」という呼び方に柳がこだわる理由は、美術という自らの携わるジャンルないし市場に向けて、道徳性を喚起したかったがためであろう。というか、民藝の可能性を思うとそうとしか考えられなくなってくるのだが、とすると、そもそも柳の理論は美術界へと向けられた内輪ウケな話なのだとも言える。はてさて問題は、柳の言うような合理性から自動的に「直観」し得る「美」が現出するものだろうか、ということにある。
 民藝として批評される対象は工芸(道具)に限られているのであるが、およそ日常の用に向けられ量産を前提とするようなほとんどの実用品は、経済合理性に基づき「正しく」作られているものである。だから、調べたら分かったと柳が言うのはちょっとズルである。しばしば資本主義や近代化の象徴であるかのように言われる機械*2による制作物は民藝から除くとまで彼はルールを決めているのだから、ますますズルである。したがってその正しさを検証すべく残された課題は自然環境との調和であり労働の充実であることになろう。(そこまで含めて、〈生活の創出=美〉である。)これらを検証するにあたって確認しておきたい点は、直観において現前してはいないようなもの、あるいは、痕跡すら残さないようなものの力が、美醜を決める吟味(批評)の対象に含まれているということである。たとえば少年少女を就学させることなく安い労働力としてコキ使ったりしていないか、廃液やゴミを垂れ流していないか、などといったことは、決して眼前の道具のみから「直観」し得ることでない。だからこそ、監督者すなわち批評家が要請されるわけでもある。分からないけど何かイイんだ、などと言ってはいけない。いかにしてこの事物が可能であったか、その条件をハッキリ見定めるのでなければならない。解釈の余地など無く「正しく」読み取る義務がある。ここのところ、対象をよく調査分析することなく「直観」を正当化する作業にのみ従事したとするなら、正しい社会生活の創出に寄与することが存在意義である民藝批評家としては、充分な仕事をしたとは言えないだろう。事物を生み出した背景としての社会の制度や法もまた、事物においては「直観」し得ないものの一つであるが、制度や法について無頓着を決め込む柳の民藝理論が、にもかかわらず共同体(主に民族、国民)の創出ないし、共同体が共同体であり続けるための力を語ることの限界もまた、ここでハッキリ見えてくるだろう。*3
 ここは柳を難詰するための場ではないからこれ以上このテーマを掘り下げることなく、課題を課題として受け取った上で、話を次の段階に進めたい。要するに、柳自身がなんと理屈を付けようと、柳の理論と実践は事物が生成する過程にではなく、「直観」し得るような美(選別・選抜)に向けられている、ということである。柳の民藝理論は、素朴で時にグロテスクでもあるような民衆の自然な生の発露(「動的な本能的なもの」)というロマンティックな柳ワールドの構築に向けられているが、しかし、なぜ彼の直観したものが〈生の発露=美〉であると言えるのかという、「美」そのものの理を、柳は論理的に説明できずにいる。*4
 柳自身は美を教えることはできなかったけれど、彼が接した工芸の中に美を教え得るものが含まれていたことは間違いない。1928年に上野で開かれた御大礼記念国産振興博覧会において、柳宗悦らは「民藝館」という住宅プロジェクトを展示。当時33歳の芹沢はそこで初めて沖縄の紅型(びんがた)に出会う。彼は柳を唯一の師と呼んでいたが、実のところ彼を支えた技術上工芸上の師は紅型(びんがた)である。1939年の沖縄滞在にあって芹沢は瀬名波良持(せなはよしもち)と知念績秀(ちねんせきしゅう)の二人から紅型の指導を受けている。紅型は13世紀頃に生まれたとされ、中国・日本・東南アジアとの盛んな貿易において、琉球王朝時代(1429〜1879)に最盛期を迎える。紅型のモチーフは沖縄のもの、本土由来のもの、中国由来のもの、インドや東南アジア由来のものと、一着の着物にあってさえ、アジアベースでありつつも無国籍状態である。柳が沖縄の古着屋で安く買い求め芹沢が感銘を受けたのは、外交上の貢物として王朝の保護を受け特権階級にある職人たちが腕を競った18〜19世紀の産物である。その意味で、彼らが見ていた「紅型」は必ずしも「民衆」による「民衆」のためのものではない。紅型には支配階級のための「首里型」と一般市民のための「那覇型」の二通りあるが、高級品である紅型が衰えたのは、労働作業と生活の近代化はもちろん、琉球王朝の滅亡によって庇護を失ったことが最大の原因とされる。こと民藝的文脈から言えば、紅型に用いられる藍色は亜熱帯ならではの沈殿法を用いて琉球藍から得られる産物であり、透明感を湛えた独特の美しさがあると評される。


図1 紅型『斜め格子に菊梅牡丹文様子供着』(沖縄県立博物館蔵)


図2 紅型『笠に藤蛇龍水葵杜若文様衣裳』(沖縄県立図書館蔵)*5


 さて、芹沢の憧れた紅型の美しさ、魅力は何か。紅型とは、型*6を切り抜いたところに糊を塗って防染し、そこに筆で少しずつ色を差し重ねていく染色法である(「イルシャシ」)。*7顔料を用い豆汁(ごじる)*8で定着させる。最初に薄く色づけし、乾かしてから濃い色を重ねてゆく。型染めと聞いて字面から版画などをイメージすると間違いのモトになる、むしろ刺青なんかに近いわけである。模様が細かく多くなるほど大変な作業ではあるが、微妙な濃淡や複雑な色の重ねが可能であるのはこのためだ。ちなみに両面染めという技法を用いる場合は、裏からも色を差す。裏表の模様をぴったり重ね合わせなければならないため難易度が高いと言われる。で、模様と色彩とを別々に施すことから、色彩は模様を視野に捉えつつもその輪郭に囚われない自由な運動を展開することが可能になる。「配色はまず主色を要所に配し、次々に所要の色を撒き散らすように差していく。模様の形象に構わずに、ひたすら美しい配色を念じて」と、芹沢も述べている。*9青い桜や赤い雁といった非写実的な彩色も多く、と言うか、友禅などに比べるとはるかに限られた色数で彩色している紅型であるから当然そうなるのだが、写実性から離れた自由な色彩構成の多くは、等価に主張し合う主要な数色の組み合わせに対してその中間色を構成することで、色彩の流れと色彩上の比例の正しさを与えられている。紅型には色を施すためのルールがある。
 こうした技法上の特長ゆえに紅型は、決して色数が多くないにもかかわらずオールオーヴァーに拡がる華やかさの印象を与える。模様の大きさや構成はいくつかの異なる単位で分けることができるが、大小の模様を配置することで生まれるスケール感はもとより、しばしば、どの模様がどの模様との組であるのか分からなくなるため、ぱっと見て全体が同じくらいの強度で目に入ってくる派手さがある一方、細部の結びつきが作り出すネットワークによる視線の攪乱からふくよかな拡がりの感じ、繊細さと深さの印象が生じる。ちょっと、万華鏡を見ているときの感じにも似ている。紅型の「びん(紅)」とは、多彩な、の意味であるが、染色プロセスとしてはよく似ている友禅との一番の違いは、こうした色彩や模様の用い方にあるだろう。芹沢の型染めは「モダーン」だと言われるが、そもそも紅型の色彩構成がかなり「モダーン」なのである。その技法上の必然によって、複数の画面を重ね合わせたような柄も生まれている。


図3 紅型『網干に菊桜水葵文様衣裳』*10


 自宅に置かれた生活道具が実にベースなしの多国籍多民族であったという芹沢は、飛白体や朝鮮文房図など、さまざまな「民藝」をコピーしているが、その手法は一貫して型染めであった。芹沢は言う。「私の染の仕事、結局は他のいろいろの場合もですが紅型を出発点としています。堅固なその型、確かなその構図、華やかな色、楽しい配色、はれやかな持ち味、底にある深さ、静けさ、思えば紅型を慕い、紅型を追って今日まできました。」*11柳の民藝理論は正しく、芹沢において、共同体としての輪郭が定かではないような技芸(精神)の結びつきとして、実践されたとは言えるかも知れない。ただし、そこに作家-職人の階層構造が忍び込んでいたのではあるけれど。晩年の柳は自らの仕事を振り返ってこう語っている。「今まで世界にもいろいろの工藝運動はあるが、民藝運動の一つの特色は、ある意味で精神運動でもあって、この事はやがて一つの著しい旗色ともなるであろう。また有難いことにこの動きは、友愛の賜で、考えると吾々ほどよい僚友を持っている仲間はあるまい。別にギルドのごとき形をとっているわけではないが、そういう形式以上の繋がりが、お互いの心にあるのは何とも感謝すべきことのように思う。」*12(了)


 *今日の画像は芹沢銈介の『苗代川春景』(絹地に型染め 1943頃 静岡市立芹沢銈介美術館蔵)です

*1:『工芸の協団に関する一提案』

*2:有名なアンティキラの計算機のように、機械は既に紀元前の古代ギリシアからある。民藝の文脈からするならば、問題は自動か手動かの違いであり、すなわち、どこからどのようにエネルギーを得るのかということ、また、余剰とされる排出物(用途のないエネルギーを含む)が自然へと還されるにあたっての、人間も含めた生態への影響などが問題とされるのでなければならないだろう。

*3:柳の理論が----その目論見に反し----何を「見る」ことができないか、という点については、紅型の生産を支えた社会制度がどのようなものであったかを知れば充分であろう。

*4:日本民藝館を訪れると、そこに展示されているコレクションの玉石混淆ぶりに困惑させられる。技術において、資材の質において、労働の質において、知性において、玉石混淆である。

*5:図1、2ともに『日本の染色18 紅型』 吉岡幸雄 京都書院美術双書

*6:「一枚型」。一枚の型を切り抜いて用いる。同じ模様の反復に見えても、一つ一つ少しずつ違いがあるのが分かる。

*7:紅型の技法については主に以下の本を参照した。児童向けであるが、社会分析も含めた好著である。『沖縄の心を染める 伝統の紅型を復興させた城間栄喜の物語』 藤崎康夫 くもん出版

*8:*大豆の絞り汁ですが、食べ物ではありません。

*9:別冊太陽『染色の挑戦 芹沢銈介』

*10:『日本の染色18 紅型』 吉岡幸雄 京都書院美術双書

*11:『芹沢銈介全集』月報三、一九八〇年

*12:『民藝四十年 後記』