作品について 2  11/3改

argfm2009-11-02

(つづき)
 「作品」とは、自らの本性において保護され守られるという自由のことであると、そう考えた或る哲学者について。
 建てること、住まうことは、ハイデガーにとって「存在」の真理である。既に別の記事で確認したように、ハイデガーの「存在」が問題含みであるのは、「存在」を取り囲む境界線が、予め先取りされた、とは言えその定義があいまいであるような、「本性」の有無によって決定されるからであった。『建てる・住まう・考える』の中で、ハイデガーは次のように書いている。およそ事物はみな境界を持つものであるが、その境界とは、「何ものかの〈本性が現れ始める〉その境界である」。
 いったい、「何ものか」とは何の謂いか?「本性」とは何か?『建てる・住まう・考える』*1の冒頭において、ハイデガーは建てること、住まうことを「存在」の領域において考えるのだと告げている。だが、「存在の領域」においてこれらを考察するばかりではない、同時に彼は、建てること住まうことについて、「建築芸術や技術」によって論じることを放棄するとも告げているのである。彼がそうする理由について、我々は既に充分知識を得ている。ここに見られる区別は、彼による形而上学と科学主義との区別の延長線上にある。そうである以上、何が事物の「本性」であり、境界を規定するとされる「なにものか」とは何であるのか、‘客観的に’検証する術はないわけである。「何ものかの〈本性が現れ始める〉その境界」とは、ハイデガーが仮構する‘真の歴史’に基づいている。再三取り上げるまでもなく、ここでもまた、ハイデガーは語源学的な探求に‘導かれ’、建てること住まうことの「存在神論」を、その「本性」を得る。だがもはや、既に別の記事において書いた同じ批判を繰り返すことはしない。別のコンテクストにおいて、彼の「存在神論」を考察するのが、ここでの目的である。
 ハイデガーの「存在神論」に欠如しているのは、「存在」の境界を定める主体への批判的なまなざし、あるいはそうしたまなざしへの配慮である。ハイデガーの哲学が、良くも悪くも保守のための言説であるのは、これゆえである。このことは既に確認しておいた。なるほど、事物は人間の自由意志の思うがままにはならない、事物は「命運」であり「もたらし」である、ハイデガーはこう考えるからこそ--人間による思索の暴力を批判するからこそ--環境保護論者であり、近代文明の批判者であり得る。ハイデガーの哲学は、人間の自由意志という能動性に伴う暴力性を告発することから始まる。しかし、事物すなわち「存在」が「何ものかの〈本性が現れ始める〉その境界」であり、「存在」するとはその存続性を保つことすなわち「何ものか」を保護し育てることであると彼が告げる時、その境界を規定するために、彼は既に人間の自由意志をそこに持ち込んでいる。と言うのも、彼が言う「本性」とは、彼が仮構する‘真の歴史’の中にしかないのであるから。自ら仮構したことに無頓着な、或る歴史の唯一性を信じる限りにおいて、ハイデガーは自らの言説について、その政治性(選別と排除、「思索の暴力」)に対して盲目であることができる。環境保護の‘大義’のもと、ある主体の自由意志(想像の自己同一性)にとって不都合な存在を境界の外へたたき出すという建設行為は、おそらくは天真爛漫に、今日なお繰り返されている。*2だが、ハイデガーの論説に随いつつもその意に反して、もし、「命運」や「もたらし」*3の結実である「存在」として「保護し育てる」べきものがあるとするならば、それは、仮構された「本性」としての主体の自由意志ではなく、事物としての「存在」を「存在」たらしめている諸関係(本性)だけではないだろうか。それ以外のものを、我々が「保護し育てる」ことが、果たして可能だろうか。
 ハイデガーは或る古農家に、そこでの人々の生活に、思いをはせる。だが、その建築物としての可能性には見向きもしない。「ここでシュヴァルツヴァルトの農家に言い及んだのは、けっして、そのような農家を建てることへ戻るべきだというのではない。」と、彼はハッキリ書いている。彼が思いをはせるのは、それが建ったということの奇跡(「命運」と「もたらし」)なのである。つまり、彼が興味を抱いているのは、その農家の、そしてまたその農家と共にあったであろう人々の、人生なのであり、そこに「本性」を認めることのできる自分自身(ハイデガーの文脈においては「ドイツ民族」の固有性)、である。
 若干、寄り道だった。以上の前置きをした上で、ここで取り上げようとするのはギー・ドゥボールによる『スペクタクルの社会』であり、鶴見俊輔による『限界芸術論』である。彼らの議論が、「作品」に対する手厳しい異議申し立てであるからだ。(つづく)

*1:ハイデッガーの建築論 ----建てる・住まう・考える』 中村貴志訳・編 中央公論美術出版

*2: たとえば身近な例(東京都付近にお住まいの方)としては、次のようなものがある http://minnanokouenn.blogspot.com/

*3:「四者方域」ないし「四会方域」(簡単に言えば、環境、季節や朝晩という周期、希望、死すべき人間の四つ)を摂り集めるのが事物であり、「空間」はそこに初めて開かれる、とされる