作品について

argfm2009-11-01

 楳図かずおの漫画『夏の終わりに』(1969)*1にはどんな目的があるのか?この漫画は読者への励ましでもないし、怒りでもないし、美談でもない。泣けるわけでもない。そこにあからさまなメッセージと呼べるようなものはない。教訓ではないし、物語が事実に基づいているわけでもない。作者の欲望が現実化された(昇華された)ものであるとも考えにくい。では、何なのか?一体何が、この漫画を漫画たらしめたのか?
 まずは『夏の終わりに』という作品のストーリーを簡単に記述しておこう。この作品は、一人の女性「世津子」の結婚とその悲劇的顛末を描いている。彼女の結婚には二つの選択肢があるかのように見えて、その実どちらを選んでも同じように悲惨な人生、同じ結末が待っていることが示される。作品は、この二つの選択肢におけるそれぞれの人生を描く。二つの選択肢において唯一異なる点は、一方の人生には手に入らなかったとは言え、ああしておればよかったという人生に対する希望(後悔)が与えられているが、他方の人生にはそれがない、ということである。
 さて、この作品において、物語は二つの人生それぞれにおける「世津子」の視点から描かれる。二つの人生、二つの物語の主人公はどちらも同じ「世津子」であるがゆえに、一方の人生を生きている主人公が、他方の主人公の人生を見ることはできない。それぞれの人生はそれぞれに終わりを持ち、ある一貫性として繋がることなく、交差することなく、完結する。要するに、物語の中には二つの相容れない時間が流れているわけである。(一方の人生は他方の人生によって生み出されたかのように描かれているが、直接の交差はなく、一方が他方の人生に対して自由に介入できるわけではない。)このとき、一方の人生から他方の人生を見ることができるのは、作品という次元を介した読者のみである。どっちの人生も辛いものだなとか、こっちの方が貧乏でないだけましだろうかとか、そんなことをつぶやくことが許されるのは主人公[の視点において]ではなく、読者だけである。この物語から教訓的なものを引き出そうとするなら、希望とは現実化しなかった可能性であるが、とは言え、可能性とは程度の低い現実なのではなく、本性上、質的に、現実とは異なる、というものかも知れない。ちょうど、妄想が程度や度合いの低い現実(強度を増すことで現実化するような何か)であるわけではないように。いずれにせよ、読者が持ち込むコンテクストに依存する以上、解釈は一つではない。だが、こうした教訓なり解釈なりを引き出すことができるのもまた、作中の主人公の視点においてはあり得ない、それが可能であるのは、作品という領野において生成する視点である限りでの読者のみである。こうした構造あるがゆえに『夏の終わりに』は「作品」なのであり、作品であることの必然性はそこにあると言うことができる。作品であることの必然性とは、受け入れねばならない運命の結果なのではない。作品を運命と混同するような者は、単に制度的に保証された枠組みを信じているだけであり、そうした信を生み出す制度的な力に依存しているだけである。別の場所で、すがたかたちが異なるものとして、もはや枠に守られていない場所において、彼/彼女達が‘再び’出会うことはあるまい。
 『夏の終わりに』には、作品たろうとする目的がある。『夏の終わりに』に目的があるとすれば、作品たろうとすること、である。(つづく)

*1:『ドアの向こう』所収 小学館文庫