作品について 8

argfm2009-11-29

(つづき)
 作品固有の次元とは何か。この問いに答えるために、私はここで芸術と非芸術との境界線を引き直すことを試みる。境界線を引くために参照されるテクストは、アンドレ・ルロワ・グーラン(1911〜1986)の『身振りと言葉』*1である。*2
 『身振りと言葉』において、物質的因果関係および機能に基づく展開という視点から技術活動と言語活動を研究したグーランは、第三部において美学の問題を採り上げる。第三部に臨むにあたりグーランが問いかけるのは、個人を超越した装置の制作者であるという以外の意味が人間にあるのかどうか、ということにある。彼が取り組むのは、諸民族および諸文化の差異を、動物学的な差異に還元しきることなく規定することである。グーランは芸術や美学 *3の発生を身体と環境との関わり(物質的因果関係および機能)に求めはするが、一方で、美学的諸差異は技術と言語活動(物質的因果関係および機能)によっては説明しきれない差異であると考える。つまり、ここで求められるべき差異の本性は、美学の発展のプロセスにある、ということになる。グーランは次のように書いている。


「技術と言語活動、ついで社会的な記憶は、価値判断をさしはさまずに扱うことができる。人間に全体として増大する有効度が与えられるように秩序脈絡ある集団をなして進化するという事実が問題であり、その有無を考えればいいからである。社会的ということがそこでは個人的ということにはるかに優越しており、進化は集団の能率という尺度しかもたないのである。美学はまったく別の響きをもっている。社会は、個人が集団の中で個性的に存在しているという感じを個人に残すためにしか優越した存在を見せない。それはニュアンスの判断に基づいている。それは選択を技術と同じほど厳格な常識遵守主義(コンフォルミスム)へは導かず、違った秩序で働く。」


 グーランの分析対象はひろく道具一般であることを注意しておく。合目的性の判断は美的な判断すなわち機能美の判断と同じであるがしかし、機能美の分析は、諸事物間での機能が近似していることを測定するに過ぎない。いかにして諸民族および諸文化の多様性が獲得されるのか、言い換えれば、美学の発展のプロセスを技術と言語活動のそれから区別するのは何か。その境界線は、技術と言語活動が集団的進化を目的とするのに対し、美学は天才や個人といった特殊の擁護を優先させるものであるという点に求められる。グーランがいかにして美学の発展において個を救い出すか、その論理は以上のようなものである。歴史と個人の結びつきという点で、この論理はハイデガーの言う「死すべき人間」(「各私性」)と同型である。つまり、かなり大雑把な言い方になるが後に詳しく触れるので容赦していただくとして、ここで主張されているのは、歴史が生成する時間の必然性を、歴史を構成する個人のイレギュラーさ*4に基づかせる、ということである。歴史はその生成のために個人を求め、個人はその「各私性」を歴史において保護される。
 だが、ここでグーラン自身が提起した最初の問いに戻るならば、この論理を以て、美学が、個人を超越した装置の制作者であるという以外の意味を人間に与えるものであると言えるだろうか。言えまい。事実、これは「民族様式」として分析される美学なのであるから。したがって、この論理は、技術と言語活動から美学を区別する論拠ではあり得ないだろう。個の擁護を美学のために主張するのであれば、同様のことは技術と言語活動についても主張されるのでなければならないだろう。以上の論理にあっては、芸術(であれ美学であれ)と技術・言語活動との間の区別は「民族」という文化人類学的な概念を用いることなしには為され得ないのであり、言い換えれば、「民族」をどのように設えるかによって、その主観(視点)いかんに基づいて、どんなものであれ「作品」になるわけである。(オタクの発生。)支配的権力の確立に基づいて、固有の文脈が生成され、「作品」が決定される[「循環構造」が発生する]わけである。どんなものであれ「作品」と呼ぶことができるという事態に対してつねに目くじらを立てる必要があるわけではないが(趣味一般の世界であり、業界人の業績確認のための----自己実現の欲求を満足させるための----世界でもある)、しかしここで、グーランによる芸術と美学との同一視には、やはり弊害があり、問題視しないわけにはいかない。というのも、ここでグーランが美学を救うために却けてしまったものこそは、「民族」なしに作品が自ら作品となる(作品として認められる)ための契機であるからだ。それが芸術作品の必要十分な条件であるわけではないとしても、まずは作品としての必要条件である。(つまり、不当にも、芸術作品にのみ、「作品」が自ら「作品」であるための契機が奪われてしまっていることになる。)
 グーランの論説において、技術と言語活動から美学が分岐することになるその直前にまで話を戻して検討してみよう。実はこの分岐点において、グーランは種や民族を超越した普遍的な価値判断の在処について語っている。(たとえば自然においても機械においてもそれぞれ認められるようなハニカム構造など。)それが「機能美」である。では「機能美」とは何か。「機能美」において、「美」の価値は力学的な建築の絶対性にあり、「美」とは機能と不可分であるような「均衡」である。「均衡」とは、目的、形、材料、リズム(相対的重量と使用者の関数)といった様々な機能が互いに互いを規定しあうことによって生じる形の維持である。超越的な主観(民族精神)による統御を必要としないという点で、これはハイデガーの言う「建て物」に似て非なるものである。*5この意味における「機能美」こそが、事物に対して、これを用いる主体の如何を問わない使用価値(使用可能性)を与える。すなわち、〈遍在的=普遍的〉な使用可能性を与える。*6つまり、「機能美」とは、現前する法である。(つづく)

*1:荒木亨訳 新潮社

*2:ちなみに、グーランの著作は、おそらくそれと意図することなしに、ハイデガーの芸術論が彼自身の思惑とは異なり、文化人類学的で美学的なものであることを論証している。ハイデガーに拠れば、彼の芸術論は文化人類学に先立ち、かつ、美学でもない、とされるのではあるが。

*3:グーランの論説の中で芸術と美学は同じ意味を持つ。

*4:グーランは「偏倚」と言う。

*5:超越的な主観とは、ハイデガーにおいては「民族精神」ばかりではなく、「民族精神」とほぼ同様の意味を与えられるものとして「身体」がある。私の住む町は私の身体である。

*6:既に言及したように、使用可能性の普遍性とは誰もが現実的に使用できるということではない。権利上、使用者を特定したり限定したりすることが出来ない、ということである。フランス語の読めない私にとってフランス語で書かれたテクストに使用価値はないが、だからといって、当のテクストの使用価値が失われるわけではない。また、フランス語のテクストが私を権利において斥けているわけでもない。‘難解な’数式なども、同様である。マルセル・デュシャンは、数学が分からなくても文句は言わないくせに芸術が分からないと言って文句を言う人々に、苦言を呈していた。