作品について 9

(つづき)
 グーランに拠れば、先史芸術にあっては、それを作るためには言語が必要であるという理由から、芸術は言語活動とも区別され得ない。たとえば、頭という概念なしに頭部をそれとして分節し、描くことはできない。骨格という概念なしに骨格は描けない。また、「構図」は言語活動として必然的に要求されるのであって、「長い何世紀もの文明の後に生れた平衡(バランス)の探求に結びついているわけではない」。そこには分節があり、統語法がある。そしてまた、書物がそうであるように、「構図」は物質的な環境や身体的な必然によって規定されている[と考えられる]。
 では、なぜ芸術活動が言語や技術活動から分離され得るのか?このような言語や技術活動と密接に結びついた芸術は、芸術の発生である先史時代に限定されていると、グーランは考えるからである。「最初の象形芸術はかなり逆説的な条件から生まれた。これらの条件がまた生まれるというのはきわめて例外的なことである。」と、グーランは言う。つまり、原初に芸術の発生を確立する根源的な差異があり、後の歴史はここから派生した、個人による変形と「民族的空想の自由」による独自の発展というプロセスにある、というわけである。(ゆえに、「限界芸術」がそうであったように、そこには社会的なるものの反映を読み込むことができる。グーランが「実用的な芸術しかない」と言うのは、この意味においてである。)独自の発展のプロセスにおいて、言語と技術活動は捨象され「美学」が‘自律’する、既に見たように、それがグーランの主張である。だが、繰り返せば、その時、グーランが先史時代の芸術を芸術として認めた契機である言語としての芸術、技術活動としての芸術は失われていることになる。ハイデガーであれば、「頽落」と呼ぶだろう歴史である。「美学」に残されているのは、ドゥボールであれば、[そう呼ばなかったであろうが]「スペクタクルの社会」と呼ぶべき表象活動である。
 では、芸術は分離にもとづく独自の発展という以外にそれとして考えられ得ないものであるのか?先に触れたように、グーランは、「最初の象形芸術」を民族的空想の「自由」や個人の遊びに基づかせてはおらず、そこには「かなり逆説的な条件」があったとされる。つまり、その発生において、芸術は言語や技術活動とは異なる独自の起源を持つとされているのである。では、その「かなり逆説的な条件」とは何か。それは人々が自然の気まぐれを探し求め、コレクションしていたという事実から出発する。引用しよう。


「いわゆる象形芸術にはその前に、じっと形に眺めいることにあたる、もっとぼんやりとした、もっと一般的な何かがあった。形の異常さは象形にたいする興味の力強いバネだが、これは主体が自分の関係宇宙の秩序だった像(イメージ)を、彼の知覚野に入ってくる物体と比較対照する瞬間から、初めて存在する。最高に異常な物体というのは、直接生物界に属していないが、その特質や特質の反映を見せる物体ということである。動物、植物、星、火などを含む生物界は、石のなかに動かなくなっていても、今日の人間にとっては、古生物学、先史学、地質学にたいするいささか漠然とした興味の泉になるのである。輝きをはなつ凝固物、水晶は、直接に人間の反省的思念の奥底にまでふれる。それは、語や思想のように、自然における形や運動の表象なのである。いわば思念の反映が凝結したものを自然の中に見いだすさいの、神秘的なというか、気がかりを与えるものが異常さの原因になるのである。」


 つまり、芸術作品が発生する条件とは、我々が、そこに現前してはいない(感性的ではない)何かがありそうだという希望(たとえ懸念であっても)を予感することにある。現前する法の背後に、法を可能にする法としての何かがある、と人は信じる。それをつかみ取り学び取ろうと思うからこそ、我々は同じ曲を、同じ作品を何度も繰り返し鑑賞するのであり、ときにアーティストのファッションや口調を真似てみたりさえする。*1ゆえに、その限りにおいて、芸術作品はそのオリジナリティ(不可侵・不可触性)を守られることに、枠によるあるいは枠としての切断に、必然的な理由を持つ。芸術が目的となり、手段としての活動から区別されるのはこれゆえである。*2ここでグーランが「最初の象形芸術」を芸術として認めたその瞬間を、我々が眼前に与えられた事物に対し、事前の保証なしに、それが芸術であるか否かを判断するための条件であると見なさない理由はあるまい。というのも、それが物質的な時間の流れの中の或る一点に限定された条件でしかあり得ないことを証明することはできないだろうからである。(その瞬間は、グーランがこの研究に取り組んでいた時代に起きたのであるから。)そしてまた、この「逆説的な条件」は、芸術が言語や技術活動でもまたあり得るということを、否定するものではない。むしろ、言語や技術活動でもまたあり得るのでない限り、すなわち主体を問わない使用可能性、〈普遍性=遍在性〉を具えるのでない限り、超個人的な装置でない限り、「いわば思念の反映が凝結したものを自然の中に見いだすさいの、神秘的なというか、気がかりを与えるもの」を芸術作品に認めることは難しいだろう。この契機なしに、芸術が自律し、自由な労働による全体を組織することは考えにくい。
 読解不可能性と読解可能性は矛盾しない。ここでは、いかにしてそうした読解不可能性を生み出すかを論じることはしない。それはここでの目的ではない。答えは、個々の局面で様々あり得るはずである。そのことが、おそらくは芸術活動(ばかりでなく消費活動も)の多様性(批判・批評を含む)および、芸術活動の運動そのものを生むのではないだろうか。(そのとき、〈普遍性=遍在性〉としてのその運動は「民族」やジャンルを超出してゆくはずである。)
 以上、作品固有の次元、および芸術と非芸術との境界線を引くことを試みた。最後に、ここで扱ってきたほぼ同時代に書かれたテクストについての議論に戻ることにする。(つづく)

*1:ちなみにデリダが『「先入見」----法の前に----』においてカフカの作品分析を通して語っているのはこうした事態であって、超越的な法がどのように内面化され解体されるかといったことを問題にしているわけではない。むしろ、こうした主題を扱うことによって、文学の批判である文学として、カフカの作品は文学の枠をはみ出す、と言っているのである。ゆえに、デリダはそこにカントを、フロイトを、民主主義を接ぎ木することができる。

*2:『限界芸術論』が決して言及し得なかった点である。ゆえに「限界芸術」は、芸術作品という枠に対する批判を敵の形体に基づくことなしには開始し得ない。