(つづき)
 カントによれば、天才とは範例(手本、先行する規則)なしにわれわれの認識を拡張する契機を与えるもの(自然)であり、したがって、学んで得られるものではないし、自ら産出のプロセスを記述することもできない。にもかかわらず、天才は良い模倣を促す。良い模倣とは、偽造や剽窃(コピー)を避けるような模倣であり、天才の自由を自由として模倣することである。天才によって創出された規則を守るのではなく、天才の創出行為そのものを反復せねばならない。言い換えれば、天才とは模倣(コピー)され得ないものなのである。重要なのは良い模倣と悪い模倣を区別することである。良い模倣とは自然を聴取することによる立法(モラル)・モデルの産出であり、悪い模倣とは単なる規則の遵守(合法性)・諸技術であると、言い換えることもできるだろう。(天才の論証において、実のところカントが依拠している論考は自らの道徳論である『実践理性批判』である。)だが、良い模倣と悪い模倣の区別を維持しようとして『判断力批判』が陥る天才のパラドックスとは次のようなものである。すなわち、天才以外にはいかなる技術も‘良いということ、美しいということ’(判定の基準)そのものを贈り与えることができないのだとすれば、いったいどうやって天才は自らを示すことが、受肉し、顕現させることができるのか、というものだ。技術による制作物がなければモデルもないというよりは(デリダはそのような言い方をするが)、技術による制作物とモデルは同時に存在せねばならぬはずだからである。
 『判断力批判』における決定的な矛盾の一つはここにある。そして、カントもこの矛盾に気づいていないわけではない。(『パッション』において、デリダは、良い模倣と悪い模倣の区別、およびカント自身によるその区別への疑義が『実践理性批判』の中で既に為されていることを指摘している。だがそこでもカントは、自らの区別を維持しようと無理をしているというのがデリダの分析である。)その逡巡を示すように、なるほど、カントは、天才が規則(範例)となるプロセスとは、範例を範例たらしめるのは、「自由の欠如、規定された合目的性、有用性、規範(コード)の有限性」に捕らわれているはずの模倣者達による再産出(コピー)しかない、とも書いている。芸術家とて、この構造から逃れているわけではない。芸術家は天才にして手工芸家なのである。カントは次のように書いている。「天才は、芸術的作品のために豊富な素材を提供し得るだけである、それだからこの素材に手を加えてこれに形式を与えるには、正格を旨とする収斂によって陶冶された才能を必要とする、このような才能にして初めてかかる素材を、判断力の判定に堪え得るように使用できるのである。」したがって、〈天才=自然〉は〈天然素材〉と言い換えることができる。とすれば、なるほど、だからこそ天才は「約束するより多くを与える」こともできるのだと、論理の筋を通すこともできそうに思われる。いわば、制作において自然(それによって生じるであろう、認識を拡張する契機、理性による関心)を導入するものとして、彼の論考を読むこともできるのではないだろうか。自然が口述するとは、そういうことではないだろうか。だが、カントによるこの言明は自らが行った天才の定義に反している。取るに足らない独創というものもあるのだ。定義によれば、天才とは「判断力の判定に堪え得る」形式こそを産出し、‘良いということ、美しいということ’(判定の基準)そのものを贈り与えるはずのものだからである。独創性と範例性の溝は埋まらないままだ。(つづく)


『パッション』 (原著1993、邦訳2001、未来社
未来社 →http://www.miraisha.co.jp/