熊谷守一展

argfm2008-02-19

 冬型の気圧配置が高まるとの予報通り、風が強く吹きつけ、寒い一日(13日)。そんな中、北浦和の埼玉県立美術館(http://www.momas.jp/3.htm)へ『熊谷守一展』を見に行ってきた。同行者二人、画家の伊部年彦と芸術学のM氏。平日のためか、1時半ごろ入場して4時半過ぎに出るまで、入場者はまばらだった。


 ベルグソンによれば、感覚についての記憶内容は感覚を暗示する。‘イマージュ(イメージ)’とは、記憶内容において暗示された感覚であり、「もはやないもの、まだあろうとしているもの」である。すなわち、再帰するということ、残存するということ、(目や耳に)灼きつくということは、イメージの本質に属している。イメージとは感覚に刻印されるものによって、受動性によって生じるものであり、つまり経験の記憶である。こうしたイメージがなければ、絵画は作品たり得ないだろう。というのもそのとき絵画は、それでもやはり絵画ではあるだろうがしかし、自らを「もはやないもの、まだあろうとしているもの」として、経験されるべきものとして、主張し得ないだろうからである。その意味で、ここで扱うイメージとは図像でもブランドイメージでもない、再帰し残存する固有な感覚の謂である。熊谷守一は次のように言っている。「絵なんてものはいくら気を利かして描いたって、たいしたものではありません。その場所に自分がいて、はじめてわたしの絵ができるのです。いくら気ばって描いたって、そこに本人がいなければ意味がない。」
 だが絵画(作品)が、鑑賞されることを(たとえ作者本人しか見なかったとしても)前提とする以上、それは内的な自己(作者の固有の経験、感覚)を参照することなしに反復され得る。従ってそれは外的な文脈に応じて様々に解され得る。つまり、ホンモノの経験と想像された経験の区別の消失、‘嘘の可能性’がある。(たとえば、記念としてのスナップ写真は、しばしば他人にとっては何を記念しているのか、そもそも記念であるのかすらわからない。撮った本人ですらなぜ撮ったのかを忘れてしまったりすらする。)なるほど、他人の痛みばかりか、自分が過去に感じた痛みでさえ現在において自分が経験することは不可能である。(同じことをすれば同じ痛みを感じるだろうことがわかっていたとしても、過去の経験そのものを現在経験することは不可能である。つまり、‘嘘の不可能性’がある。)したがって絵画作品におけるアンチノミーがあることになる。反復不可能な経験としての感覚を反復可能なものとすること(他者に送り届けること)を、作品は前提している。感覚(固有で受動的な経験)は、「〈力学的=機械的〉必然性」においてしか、かつ現在においてしかない。絵画に描くことができるのは絵画を可能にする経験そのものではなく、経験の記憶としてのイメージのみであるだろう。模倣するものと模倣されるものの次元の違いは消去できないからだ。したがって写実であり「私のものの見方」であろうとするような絵画は、〈描写=記述〉の「〈力学的=機械的〉必然性」が与える感覚において、自らの固有の経験を模倣(証言)しようとするだろう。
 ところでもし、眼前の自然を克明にすべて描いてしまったら、イメージはなくなってしまう。(先ほどの記念写真と同様に。)熊谷の絵において、ときに一般に‘単純化’と呼ばれている輪郭による囲い込みや色数の限定は、句や詩における分節を決定することに等しく、何を詠み何を詠まないかという選択を、どこからどこまでをこの場所に収めるかという「ものの見方」を示している。イメージは「ものの見方」において現れる。だが、絵画が描かれたものである以上、たとえモチーフが‘自然’としてカテゴライズされるようなものであったとしても、モチーフの合目的性、〈力学的=機械的〉必然性は、言い換えればそれが‘自然’であるということは、自明ではない。〈描写=記述〉における自然と、カテゴリーとしての自然とは異なる。したがって、〈描写=記述〉において、自然の〈力学的=機械的〉必然性を示す必要がある。審美的判断と対象の認識との関係は、対立ではない。 
 〈描写=記述〉における自然の〈力学的=機械的〉必然性を示すものとして、たとえば、『野火』(1961)という絵を選んでみよう。野火が始まってからだいぶ経つのだろう。というのも、もうもうと煙が立ちのぼり、薪の中にはすでに炭になったものが見えるし、灰もずいぶん積もっているからだ。だが野火はまだ続くのだろう。まだ焼かれていないものもずいぶんあるからだ。画面の中で火はひときわ彩度が高く、目立ち、浮かび上がるように描かれている。とすると、もう辺りは暗いのだろう。背景は少し離れてぐるりが囲まれてあるのか、火に照らされてやや赤みを帯びているように見える。回想か、夢か、画面には音を暗示する描写はない。