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 (つづき)
 それだから、天才とは、循環的経済の外にある‘自然’との唯一直接的な交感(交換)を許された者である。(ここで‘自然’は、〈力学的=機械的〉必然性を有し、かつ、循環的経済の外にあるという以外のものではない。)天才はそのありあまる豊かさによって循環的経済を気前よく断ち切る。天才とは、同じものの再生産としての静的な構造に活力を与え、新たなる方向を指し示す駆動因・外因である。(だが、天才は自らが何を為しているのかを知らない。)オリジナリティの芸術は〈経済=横断性〉である。何ものからも報酬を得ない芸術家はしかし、国家によって養われるだろう。こうしたもろもろの事柄ゆえに、デリダは、エコノミメーシスの構造は必然的にその類似物を国家のうちに持っている、と指摘する。
 天才は自らが何を為しているのかを知らない。そして、「かかる美を産出したのは自然である」という考えを人々に惹起するためには、「芸術は、その目的によって関心を生ぜしめるのであって、それ自体で関心を喚び起こすのではない。」(第42節)のである。つまり、制作における時間、あるいは作品の構造そのものはここでは問題とはならないのである。かくして、『判断力批判』においてはパクリが、「文化的歴史的コンテクスト」の一方的な簒奪・変形が正当化されてしまうだろう。こうした批判は、文脈の切断としてのコレクションと審美的判断をキーワードとしたクリフォードの議論に対し、そもそも文脈の切断がどのようになされるのかを説明するものとして、これを補うものと考えることもできる。
 オリジナリティ批判は、しばしば、とくにポスト・モダニストを自称するアーティストや美術批評家達においては、〈天才=自然〉によって‘循環的経済’を批判しうると考えられるがゆえに、その意図とは裏腹にむしろ、ここでデリダが批判するような「エコノミメーシス」の構造一般の反復を帰結する。〈天才=自然〉(「アノーマリー」、「シフター」)が、計算することなく「自らを(思考すべきものとして)与えるやいなや、限定的エコノミーと一般的エコノミーの対立(傍点)は、つまり循環=円環と濫費的産出とのあいだの対立(傍点)は、消え去る方向へ進む。」(「」内デリダ。)すなわち国家(美術界)事業としてのアート、国家(美術界)のためだけのアートである。これらの言説は、自らが批判したつもりになっている「エコノミメーシス」の枠組み、境界を、‘循環的経済’を必要とし、前提としている。それが言説の中にしかないのか、それとも作品としてあるのかは、個別の事例において判断すべきことであるにしても。天才を頂点とするヒエラルキー国家において、問われないのは‘天才’の自然との非同一性であり、‘循環的経済(諸技芸)’における交換不能なものおよび快、‘自然’の自由意志である。(*これは『エコノミメーシス』の答えではない。)


 ところで、「いかなる基準が、真正の文化的あるいは芸術的産物を公認するのか?」という問いがまだ手つかずのままである。このことについて、考えよう。
 天才は学ばれる(マネぶ=模倣)ものではない、絶対的な産出である。(カントは学問に天才を認めていない。)この天才における無知があるからこそ、カントは、こうした模倣不可能なものが、にもかかわらずこれを模倣せんとする欲望を、再生産を促すと言う。すなわち、自然美の鑑賞において我々が抱くはずのモラルが、自然がかくかくしかじかのことを行うということへの関心が促されるのである。(ならば、われわれはセザンヌについて研究するのではなく、‘スザンヌ’について研究せねばならないのだろう。もっとも、それがテレビである以上、テンネンであることはどこまでも疑いうるものであるはずだが。)しかし一方で、カントは取るに足らない独創というものがあることを認める。(スザンヌのことを言っているのではない、念のため。)つまり、天才は、それ自体では、判定の基準となるような範例たる芸術を生み出し得ないということである。独創性と範例性はカントにおいてもイコールではない。しかしカントは、天才の芸術は範例を示すのでなければならず、他の人たちに対して判定の基準ないし規則の用を為すものでなければならないとも述べている。ここにパラドックスがある。(つづく)