(つづき)
 賃金を必要とする技術(手工芸)とミツバチの巣は、「自由の欠如、規定された合目的性、有用性、規範(コード)の有限性、理性を欠き、想像力の戯れを欠いたプログラムの固定性、といった点において似ている」、とデリダは指摘する。『判断力批判』において、一度は異なるものとして、機械的なものと自由なものとして区別された両者は、天才を頂点とする階層秩序の中で一括りにされる。自然にも似た産出を自由意志のもとに為す天才による自由な創造的産出に比べれば、手工芸とミツバチの巣に違いはない。ここで、カントによる芸術と自然のアナロジーが何を言わんとしているかを確認しておかなければならない。カントによれば、天才は自然の外見を、産出物を、図像的類似を模倣するのではない。なぜならそうした行為は対象への隷従であり、再生産であり、自由な行為ではないからだ。そうではなく、天才は、自然の能産的行為、その産出行為、不思議で未知であるような現象の合法則性そのものを模倣するのである。(MOMAの事例において示されようとしていた天才とは、このようなものである。)自然とは、われわれの解明を超え、われわれの知識以上に多様な形式を蔵するものである。「芸術的所産の形式における合目的性は、およそ任意な規則による一切の強制から全く自由であって、あたかもこの所産が単なる自然の所産であるかのように見えねばならない。」とは、そういう意味である。
 技術(芸術と手工芸)と自然の対立および階層化は、技術に理性と自由意志を、言いかえれば〈法=規則〉に自発性の価値を与えた。さらに、技術と芸術の対立・階層化は、芸術に再生産ではない産出的能力を与え、法を創出し措定する能力に価値を与えた。天才は自然を取材し(「聴取」し)、模倣する。言い換えれば、権利上、天才だけが自然を模倣するのであり、自然の代弁者ないし代理人ではない限りにおいて、自然の「創発」を我がモノとすることができるのである。ここにおいて、なぜ天才が約束するよりも多くを与えるなどということが可能なのかが示される。カントは次のように書いている。


 「・・・・それだからかかる所産の創作者は、この作品を自分に負うているにも拘わらず、その着想がどうして彼の内に生じたかを自分でも知らないのである。彼としては、このような着想を、任意にもしくは計画的に案出できるわけがないし、また他の人たちに彼と同様の作品を産出することを可能ならしめるような指定を与えて、かかる着想に与らせることもできない。」(第46節、引用文は語の統一のため岩波文庫版を用いた。)


 デリダによれば、この箇所は自然の自由な産出性と天才の自由な産出性の間のアナロジーが、ロゴス(言葉を語ること)へと遡行することを示している。その点はこれまでも見てきたが、いずれ改めて別の形で検討してゆくことにしよう。ここでそのことを示そうとしているデリダの分析は冗長で難解だからだ。とりあえず、これまでの流れの中で、この引用した箇所がいかに問題発言であるかを確認できればよい。(つづく)