(つづき)
 邦訳者である湯浅博雄のあとがきによれば、デリダ(1930 - 2004)の『エコノミメーシス』(原書1975、邦訳2006、未来社)は、ミメーシスを主題とする共同著作の一篇として書かれた。デリダがこの論考において目論むのは、カント(1724 - 1804)の『判断力批判』(1790)の中に、芸術および美に関する言説の中に、一つの政治学・ポリティカルエコノミー(政治経済学)という特性を読みとることである。読み取る、とは枠づけることや限界を画定することではない。新たな体系に織り込まれるたび、「哲学素」が自らの位置をずらし、意味と機能を変えつづけるのだとすれば、哲学的特性がある一つの体系の〈本来性=固有性〉を枠づけるなどということは不可能であると、デリダは言う。「エコノミメーシス」とは、エコノミー(経済)とミメーシス(模倣)をくっつけた造語であるが、「エコノミメーシス」は芸術および美に関する言説の本質ではない。だが、それは「たしかに織り込まれている」。
 経験的でも超経験的でもないような仕方で、ある事例の中に出発点を定めよう、そう、デリダは言う。その出発点とは、『判断力批判』において、ミメーシスについてのカントの全理論が、賃金に関する二つの指摘に挟まれているという事実である。『エコノミメーシス』は、この事実の必然を示そうとする。
 ミメーシスの全理論を挟み込んでいる「賃金に関する二つの記述」とはどのようなものだろうか?デリダによれば、最初の記述は第43節「技術一般について」の中で書かれ、最後の記述は第51節「芸術の分類について」の中に書かれている。二カ所に現れた「賃金に関する二つの記述」は、同一のものである。どちらも、芸術は交換不能なものであり、経済的循環の中に入ってはならないことが言われている。カントが芸術は賃金を必要としないということの意味は、それが強制的で機械的な労苦ではなく(したがって賃金による慰めを必要とするものではなく)、それ自体仕事として快であるという意味であり、その仕事を量によっては測れないという意味である。「我々はかかる自由な技術を、あたかも遊びとしてのみ合目的な結果を生ぜしめる(合目的に成就され得る)ような技術であるかのように見なすのである。」(篠田英雄訳、岩波文庫版、以下同)。かくして、芸術と技術一般が階層化され、区別される。賃金を必要とする強制的で機械的な労苦にも快はありうるではないか、とか、ロナウジーニョは賃金を得てはならないのか、鈴木啓太ならいいのか、・・といった話ではない。ないでもないが、とりあえずない。交換不能なもの、経済的循環の中に入ってはならないものが芸術であるという定義、これが問題である。カントにおいて、経済的循環とは、たんに賃金の話というばかりではなく、同じものの再生産を意味している。同じものの再生産から逃れるもの、それが、再生産を促しはするものの自らはオリジナルであるような「模範」であり、芸術であると、カントは言うのである。
 この第43節には、芸術と技術の階層化に先立って、技術と自然の区別がある。自然とは〈力学的=機械的〉必然性であり、技術とは自由意志による、理性による産出である。自然と技術の区別は、作用(effectus)と作品(opus)の区別に対応すると、カントは書く。たとえば、‘笑われる’と‘笑わせる’の区別である。ミツバチの巣は本能の所産であって、技術的作品ではないと、カントは言う。芸術と技術の対にせよ、技術と自然の対にせよ、デリダが批判するのは、一見還元不可能であるような対立が最終的に解消されるような、その手口である。「それはいかなるポリティカルエコノミーを利することになるのだろうか。」と、デリダは問う。『判断力批判』において、こうした技術と自然の対立はどのように解消されているだろうか?第45節にはこう書かれている。「我々は芸術の所産について、かかる所産が人工であって自然ではないということを心得ていなければならない。しかし芸術的所産の形式における合目的性は、およそ任意な規則による一切の強制から全く自由であって、あたかもこの所産が単なる自然の所産であるかのように見えねばならない。」‘あたかも〜のように’というアナロジーによって、自然と技術の区別は解消される。ミツバチの巣と技術一般の産物(手工芸)は、芸術の自由な産出(天才)から見れば、類似したものとなる。デリダは書いている。「創発[e(')mergence](アート[技術=芸術]、自由、言語などの創発)という絶対的な特権を救うために、こんな創発を一つの絶対的な自然主義、絶対的な非分化=非差異主義のうちに基礎づけるという点、そうやって人間的産出性をどこかで再び自然化し、分化=差異を抹消してしまう、つまり〔自然とアート、動物性と人間性という〕対立のなかへと解消してしまう、という点にあるのである。」(訳者によれば、「創発」の語は、突然変異や、新事実や新思想の突然の出現、展開なども指すという。)
 (つづく)

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