パレルゴン(4)

この日のぶんは、削除扱いにしました。
下に小文字で表記されているのが、削除された過去の文章です。(080229)

 (つづき)
 少し長くなってきたので話を整理しよう。(以下ロボット風、やや早回しの口調でお読み下さい。)
 

 MOMAノ展覧会『20世紀芸術ニオケルぷりみてぃう゛ぃずむ』ハ、当時カラソノ展示ノ無根拠サニ対シテ多クノ批判ガアリ、くりふぉーどガ批判シテイル事例ニ至ッテハ、ソモソモ美術批評以前ノ‘基準’ニヨッテ作品同士ノ比較ガナサレテイタ。ソコデハ、ぴかそノ作品ニ対シテモくわきぅとるノ仮面ニ対シテモ、ドチラモナゼソレガ芸術デアルト言エルノカトイウ議論ハ欠ケテイル。展示ノアリ方自体ガ、コウシタ議論ヲ保留シ、アル結論ヲ強イルヨウ為サレテイタトモ言エル。(「造形芸術における天才の手になる解決というものは、すべからく本質的に本能的なものである」--W・ルービン)。ユエニ、ソコデ指摘シテオイタ搾取・抑圧ノ構造ハ、展覧会組織者タチノ独善性ニ対スル批判、オヨビ展覧会しすてむノ批判ニハナリ得テモ、美術批評ヘノ批判デハアリ得ナイ。くりふぉおーどハ「ピカソにとってよいものならMOMAにとってもよいものだというわけである。」ト書イタガ、ソウデハナク、ココニハぴかそノ利益ヲ装ッタMOMAノ利益シカ見出サレナイノデアル。サラニMOMAニセヨくりふぉーどニセヨ彼ラノ議論ヲ追オウトスルトキスグニブツカル障害トハ、ソノ精度ノ低サユエノ普遍性ノ(トイウカ、反復可能性ノ)欠如デアル。タトエバ次ノ一文、「文化的背景は、正しい審美的な鑑賞や分析にとって本質的なものではない」ニ対スルくりふぉーどニヨル批判ハ不毛デアル。文化的背景ヲ理解シツツ審美的ニ鑑賞スルコトハ不可能デハナイノダカラ。審美的鑑賞ハ、文化的背景ヲ抹殺シハシナイ。ソモソモ、かんとデアレバ、美ノ経験ハソレヲ生ミ出シタ「自然」ヘノ関心ヲ生ム、ト、言ウダロウ。(審美的ナルモノガ‘いめーじ’ヲ意味スルノダト言イタイノデアレバ、彼ハソノコトヲ説明シナケレバナラナイ。コレラ2ツノ語ノ結合ハ自明デハナイノダカラ。)モットモ、ソコデ言ワレル「文化的背景」ガ、制作ガ必然的ニ帰属シテイル環境(タトエバいんふら、道具、自然環境ナド)ヲ意味シテイルノダトシタラ・・・・ダガ、くりふぉーどガソレニ触レルコトハナイ。
 

 とは言え、美術批評にとって、あるいは制作者や作品にとって、こうした一連の問題は他人事なのか、というのが問題である。