(つづき)
 クリフォードの批判は、芸術論、芸術作品そのものというよりは、オリジナリティや普遍性の捏造を必要とするような展覧会・展示という発表のシステム、コレクションというシステム、流通のシステムに、彼が「芸術=文化真正性システム」と呼ぶものに、向けられている。つまり、コンテクストの異なるものどもを収集し、連続性を与え、価値や意味を創り出す我有化(appropriate)のシステムに向けられている。(「芸術=文化」を組織する論理と結託しつつ、今日においてもそのシステムは生きている。「ネオ・ポップ」や「マイクロ・ポップ」として、それは我々にも‘身近’な出来事である。後に項を改めて、こうした事例を分析してゆくつもりである。だがひとまずは、ここで論じておきたいことは展覧会システムのことではない。)彼の論考において芸術論、芸術作品が問題となるのは、「いかなる基準が、真正の文化的あるいは芸術的産物を公認するのか?」という問い、「芸術=文化」を組織する論理への問いとしてである。だが、この問いに対する彼の答えは、その答え自体に問われるべき当のものが含まれているがゆえに、答えになっていない。彼の答えとして我々に提示されるのは、芸術/非芸術、オリジナル/集団などといった二項対立を前提する図式だけなのである。(「意味の四角形」と呼ばれる図式。)芸術とは何か、いかにして芸術/非芸術の区別は為されるのかといったことには、クリフォードは一切答えない。彼は芸術の「文化的歴史的コンテクスト」に興味がないのではないか、と疑いたくすらなる。(先の批評文とは別の場所で、「芸術と文化の収集について」と題された論考において、すべては「ときとして非常に急激に変化する」「単に審美的というだけではない諸基準」に基づいた「目利きや収集家」の判断によるのだと、クリフォードは説明している。 --それはかならずしも「審美的」ではないのである。「単に審美的というだけではない諸基準」に基づいた「審美的判断」・・(-_-;)。-- 語用法から察するに、彼が批判する「審美的」とは、E・サイードも批判するような、対象の封じ込めとしての‘イメージ’に近い。だが、彼が「審美的」の語に対する曖昧さを示すのはここだけではない。先に(前回)引用した一文において、「文化的コンテクストについての無知が、審美的鑑賞のためのほとんど前提条件となっているかのように見える。」と、クリフォードは書いていた。「AはあたかもBのようである」とは、AとBが異なるものであることを含意するアナロジーである。AとBは同一ではない。にもかかわらず、クリフォードはこれらを同一のものである‘かのように’用いつづけるし、そのことの理由は示されない。 )
 たとえクリフォードのような社会学的制度論が芸術に対してナイーヴなままであるとしても、こうした一連の問題が芸術作品にとって、批評にとって、あるいは芸術とは何かという認識論(美学、芸術学、つまり芸術の哲学)にとって、本質的な問題でないとまでは言えない。つまり、「いかなる基準が、真正の文化的あるいは芸術的産物を公認するのか?」という問い、およびこの問いをどう考えるかという問いは残り、答えは与えられないままにある。この問いに答えを出さねばならない。以下に、デリダによるカントやハイデガーの読解を参照することで、この答えを考えることにする。