argfm2008-02-01

 ポスト・モダニズムあるいはポスト・コロニアリズムの再検討から。
 文化人類学者ジェイムズ・クリフォードは『部族的なものと近代的なものの歴史』(『文化の窮状』所収 人文書院)において、ある部族(民族)の記憶(歴史)が別の部族(西洋人)によって時間も空間もばらばらに寸断され再構成されつつ取り込まれてゆく植民地化の過程を、様々な展覧会を分析しつつ批判している。彼による批判の要諦は、彼が「芸術と人類学のモノ・システム」と呼ぶ構造において、審美的判断に基づく普遍性という理念、および理性による関心が、「文化と芸術家達の具体的で創造的な」実存をいかに搾取・抑圧してきたか(いるか)、ということの告発である。二つの部族の間には内部と外部、あるいは上位と下位といったヒエラルキーがあり、一方が他方を継続的に支配し続ける枠組みがある。
 たとえば、MOMAの展覧会「20世紀芸術におけるプリミティヴィズム」(1984-85)においては、ピカソの手になる『鏡の前の少女』という絵画と太平洋岸インディアンであるクワキゥトル族の手になる仮面が、その図像的な類似性によって、文化的歴史的コンテクストを超越した普遍性を持つ、とされる。だが、これら二つの「作品」による比較は奇妙に不均衡である。一方は天才の異名を取る作家名を持ち(ピカソ)、他方は部族名を持つ(クワキゥトル)。一方はその手法が知られ名すらも与えられている(キュビスム)が、他方はコンテクストを奪われておりかろうじて道具であることのみが告げられる(仮面)。つまり、一方は天才的存在の自由意志による「作品」であり、他方はある集団の様式を具現化するが生産の背景や手法を知る術もないような「道具」、いわば自然の産物である。アナウンスにおけるこの不均衡さは、比較の目的が文化的歴史的コンテクストを超越すること(そのことによって普遍性を証明すること)にあることを考え合わせると、アンフェアなものとなる。というのも、予め、一方には文化的歴史的コンテクストが与えられており、他方には与えられていないのだから。文化的歴史的コンテクストを超越することに利益を見出すのは、意味を見出すことができるのは、一方のみである。
 一方は、自由意志に基づく自由な制作であるがゆえに、それが目的不明の制作物であるがゆえに、非現実的なもの(普遍性のないもの)となる脅威に常にさらされている。あるいはまた、技術である以上それは反復可能でありしたがって文化的歴史的コンテクストを超越するようなオリジナリティはないことになるだろう。自由にして普遍、反復可能にしてオリジナル、「芸術」としての宿命を負わされた一方が絡め取られているこの矛盾は、それが自ら到達することはできない外部の‘自然’との同一化を果たすことによって解決されるだろう。この代補的構造においてこそ、‘自然’が必要とされるのであり、部族美術からのコンテクストの剥奪、名の剥奪(「文化と芸術家達の具体的で創造的な実存」の剥奪)が、機械的で合目的的な運動を行う‘自然’を演出するために必要とされるのである。このような自己の利益(文化的歴史的コンテクストの超出)を生み出す目的でふるわれる暴力を、クリフォードは自民族中心主義であると批判しているのである。しかし、この自己とは誰だろうか。 (つづく)

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