カラヴァッジォのリアリズム

ホロフェルネスの斬首

 旧約聖書外伝「ユディト記」に題材を採ったカラヴァッジォ(1571年9月28日 - 1610年7月18日)初期の作品『ホロフェルネスの斬首』において、人殺しなどやりたくないし見たくもないが、仕方なしにそうしているといったダブルバインドの状態でユディトは描かれている。まるでこの場に居合わせることさえ耐えられないとでも言うかのように、腕の動きとは裏腹に全身は画面の外へと逃れるかのように描かれている。(「できればやりたくないのよねえ・・グサッ」。)
 勝利の陶酔でもなく、ヒロインとしての栄光でもなく、神への敬虔でもなく、女傑でもない、また、ユディト記を拠り所とする必然性がないような、愛玩の対象としての女性像というのでもない。ここに描かれたようなユディトは珍しい。(画像リンクなど参照のこと。)ユディトを描いた様々な絵画を見るにつけ、ユディトとは「神の後ろ盾を得つつ女を利用して自民族の勝利に貢献した女傑」としか見えない。加藤隆『旧約聖書の誕生』によれば、ユディト記の成立にはマカベア戦争が背景にあり、そのため民族の排他的な正当化の原理として神が利用されたとある。ユディトはこのような原典の成立を反復するように描かれるのが常であると言ってよいだろう。だが、カラヴァッジォの描くユディトは違う。
 ホロフェルネスは虚空に彷徨わせた視野の縁にユディトをとらえて、彼女に驚いている。(「えっ、ええ〜!?ユディトちゃん??・・ウゲッ」。)このホロフェルネスの視線の先には、そこから身をかわそうとするユディトがいる。(ユディトは何から身をかわそうとしているのだろうか?血であるのかホロフェルネスの視線であるのか、彼女の視線の延長においてこの二つは重ね合わされているがゆえに、彼女が身をかわそうとする対象を一つに絞ることは難しい。)ユディトの身体が示すこの動き、上半身と下半身のねじれは、ユディトのエプロンが見せる色彩と襞の動きによって強調されている。ちょうど、外国語の構文を把握するために主語と述語に引かれた強調の下線のように。
 画面右隅で斬首を固唾をのんで見守っている老婆は、やや彩度を落として描かれ、かつ、ユディトの輪郭と絵の枠の間に生じた余白に嵌め込まれるように配置されているため、この事件の演じられている舞台の外に存在しているかのように見える。まるで老婆はこの惨劇の演じられる舞台に後から付け加わったものであるかのようだ。老婆の視線はホロフェルネスへと向けられており、背景の赤い布と老婆は、この絵を見る者の視線が定めるべき焦点を、すなわちホロフェルネスの首に刃が当てられている箇所を共に示している。かくして画面の見かけ上の中心が定められる。背景の布は画面の構図を反復してもおり(ユディトの腕の動きをなぞり、ホロフェルネスの肩のラインをなぞる)、老婆と布は、ある場を枠付け物語る(流れの筋道をつける)ものであるという点において、我々鑑賞者を代理すると言えるだろう。赤い布と老婆によって、事件に対してわれわれ鑑賞者が取るであろう態度が予告・反復されている。いわばシミュラークル(疑似餌)として。ユディトが身を逃れさせようとしているのは、自らをその視野から逃れさせようとしているのは、この見かけ上の中心である。(ここでユディトを描いた様々な絵画、様々な論述--ユディトのアーカイヴ?--を思い浮かべることで、この物語とユディトがどのように描かれ、解釈されてきたかを考え合わせてみることもできるだろう。)
 物語を可能にしている(起点となっている)斬首の一撃の主体は同定しがたい。そこにはしばしば描かれてきたような神の指標・痕跡(光など)すらない。責めを負うはずのユディトは、事件を嫌悪し、画面から逃げ去ろうと身をよじっている。この行為を正当化しうるものは決してないと言うかのように。


「人間の心の奥すらも見通せず、その思いを理解することもできないのに、どうして、万物を造った神の心を探ってこれを悟り、その考えを知ることができるだろうか。」(8.14)(加藤隆訳)


 そこにこそ、ユディトの敬虔がある。この絵が傑作である理由は、たとえユディト記を読まなくとも、この一文がユディトの口から出たものであろうことを確信させる点にある。ユディトの決断、ユディトによる一撃を可能にしたであろうものは、彼女の固有の経験として、示されるがしかし知り得ない。彼女がこの事件を引き受ける者、アーカイヴのための見出しとなることは避けられないのではあるが。(先述した『旧約聖書の誕生』の加藤隆は、すべてを神に委ねたはずの彼女がなぜ自ら行動を起こそうとしたのかという経緯について、「ユディト記」は沈黙していると指摘している。そもそも様々な時代の物語が混在し地理的設定にも誤りが多いとされるユディト記は、それ自体が固有なもの無き一つの場であった。)

画像リンク → http://art.pro.tok2.com/BibleOld/IApocrypha/06Judith/Judith.htm
旧約聖書の誕生』加藤隆 著 筑摩書房 http://www.chikumashobo.co.jp/