クワキゥトルによる仮面

(つづき)
 「MOMAでは、テクストへの考慮というものは、展覧会の入り口できっぱりと言い渡されているように、人類学者の仕事とされる。文化的背景は、正しい審美的な鑑賞や分析にとって本質的なものではない。優れた芸術つまり傑作は、普遍的に認知できるものなのである。モダニズムのパイオニアたち自身、これらのモノの民族誌的意味については、ほとんど、あるいは全く知らなかった。ピカソにとってよいものならMOMAにとってもよいものだというわけである。実際、文化的コンテクストについての無知が、審美的鑑賞のためのほとんど前提条件となっているかのように見える。このモノ・システムのなかでは、部族的なモノは、ある一つの環境、すなわち芸術の、美術館の、市場の、目利きの世界で自由に流通するために、別の環境から分離されているのである。」(前掲書)
 
 だが、クリフォードが「審美的判断」の語に明確な定義を与えぬまま用いつづけることで、当ブログの目的である芸術論は困難になる。たとえば、先に言及されていた「図像的類似」による同一化を、審美的判断ないし美学的判断に基づくものであるとは言い難い。なるほどカント以来、目的を(機能を)括弧に括るということが美を経験する条件であると言われるにしても、この事例においては「美しい」という判断が働く余地は与えられていない。そもそもピカソの作品に対してさえ、それを経験する必要がないような、これは比較なのである。重要なのは美ではなく同一化である。この比較を可能にするのは審美的判断というよりは観念連合であり、そうであればこそ、比較を行う主体の帰属する場を同定し、その傾向を指摘しうるもののように思われる。(つまり、クリフォードが批判している事例としての「図像的類似」は、部族文化にキュビスムを見ることはできても、クワキゥトルの仮面から西洋美術ないし文化を見ることはできない主体の在処を、その「思考の習慣」こそを証している。)先述した搾取・抑圧の構造一般は「文化的歴史的コンテクストの超出」による普遍性すなわち天才の普遍性を追求するものであり、カントであれば、美の経験とは区別されねばならぬものであろう。(カントであれば、天才と美の経験という両者の接続に苦心惨憺するところであろう。)
 他者からコンテクストを剥奪し、名を剥奪することなしに、美は、あるいは芸術は可能か、ということが問題である。(部族民族の不断の生成変化という「ルーツ(経路)」を、「真正性」のカテゴリーから救うことを課題とするクリフォードにとって、正しくも、これは問題とはされないものだ。)そもそも「美」、「オリジナリティ」、「普遍性」、「芸術」、これらは「文化と芸術家達の具体的で創造的な実存」とは相容れないものなのか、このことが検討されねばならない。いかにクリフォードが自分は認識論によってではなく政治的・歴史的なプロセスにおいて問題を考えるのだと主張しようとも、それが認識論の場とは厳密に一致することがないというのは本当だとしても、しかしながら彼もまたそれを認識論的に語ることを避けてはいない限りは、認識論の語を用いざるを得ない。そして、その語は、必ずしも厳密に、精確に機能しているとは思われないのである。(とは言え、クリフォードが指摘しているような問題を矮小化しないよう努めるつもりだし、それらが偽の問題であるなどというつもりは、全くない。こうした問題の重要性は、これからもこの場所で何度も形を変えて書いてゆくことで確認してゆきたい。)
つづく

画像リンク元 →http://images.google.co.jp/imgres?imgurl=http://www.masksoftheworld.com/
;画像の仮面はMOMAの展覧会で展示されたものではありません。
クワキゥトルについて →
http://www.mnsu.edu/emuseum/cultural/northamerica/kwakiutl.html