ロザリンド・クラウス----批評の方法(19)

(つづき)
 「ポスト構造主義とパラ文学」というテクストの中には、クラウスがバルトを、デリダをどのように受容したのかについて自ら語っているくだりがある。彼女の考えでは、バルトとデリダはその企ての点で多くの違いがあり、彼らを並置できるのは「パラ文学」というジャンルを開始したという点においてのみである。文学と批評の垣根を越えるこの「パラ文学」は、クラウスにとって批評における既成権威の大部分を失業に追い込むほどの破壊力を持つと考えられている。彼女がここで「既成権威」と呼んでいるものとは、批評家という仕事の定義に関わる。「既成権威」に分類される批評の定義とは、「その作品の文字通りの表面を突き破り、剥がすことによって解明され露呈させられるような、一群の意味aやbやcが背後に控えているという考え方」に基づいて、作品が指示する「固有の真正性( authenticity)を引き出す一団の根源的条件」を同定する仕事である、というものだ。
 こうした既成の批評に対し、「パラ文学」とは、「討論と引用と党派的精神と裏切りと和解の空間」であり、「私たちが文学作品を構成するものと考えているような、統一性や一貫性や解決の空間ではありません」、と、クラウスは言う。だが、なぜ、そう言えるのか?また、なぜ、そのことが批評における既成権威の大部分を失業に追い込むほどの破壊力を持つと言えるのか?
 なるほど結局のところ彼女はその理由を、「バルトもデリダも、文学作品というあの概念に対しては深い敵意を抱いているからです。」としか述べていない。これではほとんどギャグだが、しかし、ここで議論の伏線として、直接に言及されることなくその存在を指し示されているのは、デリダのテクスト『復元』(『返却』〔もろもろの復元〕、以下「復元」に統一)である。既に見てきたような相変わらずの理論の下請け丸投げではあるが、クラウスの「真正性」批判がデリダのテクストに多少なりとも依拠しているであろうことはその「指し示し」から理解できる。そして、「バルトとデリダはその企ての点で多くの違いがある」と断ったにも関わらず、バルトとデリダが「その企ての点で」混交されるのもまた、この「真正性」を巡る議論においてである。デリダの「復元」というテクストが複数の声から成っているということ、つまり、「複数の次元と様式と語り手によってもたらされるその劇的な相互作用」という「文学の持ついくつかの条件と策略のこのような横取り」*1において、クラウスはロラン・バルトのテクストとデリダのそれを並置する。そしてクラウスにとって、「パラ文学」であることはそのまま「真正性」の批判を意味するのである。
 ところで、「復元」というテクストで問われていたのは、作品の起源を同定したり分析しようとしたりする欲望がいかにして生じるのかというその条件であり、また、作品を分析者(鑑賞者)の帰属する文脈(「有限責任会社」)へと従属させようとするメカニズムであった。すでに長々と(かなり拙いものとは言え)論じたのでここで必要な要点として話を簡単にすれば、この点において、バルトとデリダを並置することは難しい。というのも、要するに、デリダは「固有性にはもはや区分がない」ような「世界の混乱」という目論見であるとか、「観念連合の結節をほどく交叉」によって「詩」を生み出す想像力そのものの運動などについて語っているのではなく、内在する二つ(以上の)ものに関してはまさにその逆、二つの「構造上分離可能である」ものが一対にさせられるとき働くものこそが、作品を分析者(鑑賞者)の帰属する文脈(「有限責任会社」)へと従属させようとする欲望であると言っているのであるから。対ならざるものの存在こそが「隠れた意味」を生み出し、同時に作品から「隠れた意味」としての主体の自己同一性を奪うのであるが、一方で、この主体の不在において対ならざるものを‘一つ’にせんとする目論見、すなわち「復元」という欲望こそが、作品を背後で支え統合するような隠れた「主体」という「固有の真正性」を同定する作業において作品の「我有化」をもたらすのである。
 したがって「固有の真正性」を批判するということの意味が、バルトとデリダにおいては異なる。バルトにとって隠された意味や「固有の真正性」は、テクストそのものが生み出すような純粋な運動を救い出すために否定されねばならないものだった。言い換えれば、バルトにとって作品を背後から統御するような「隠れた意味」ないし「作者」が否定されるのは、作品をそれ自体で閉じた完結した構造を持つものとして扱おうとするがゆえにである。作品は複数のセリーにおいて引用や交換が引き金となることによって生成する、それがバルトの作品分析が前提とするテーゼである。一方、デリダが「固有の真正性」を批判するとしたら、それは、自らの分析方法を正当化するために「隠れた意味」ないし「作者」が排除されねばならないからではなく、作品ないしテクストを媒介にする限り「隠れた意味」としての「固有の真正性」が知り得ないものにとどまるからである。作品を産出する契機としての「固有の真正性」が存在しないとも(ボードリヤールのように)、また「固有の真正性」を探ろうとする欲望が悪徳であるとも言っているわけではない。単純化すれば、「固有の真正性」を復元することすなわち現前させることができるならば、そのとき「作品」は存在しないだろうというだけのことである。*2
 おそらく、「復元」というテクストが複数の声から成るのは、「対」を成さないようにとの工夫からであろう。その意味でも、「パラ文学」の一点でバルトとデリダを並置することはできないだろう。最後に、クラウスにとってまったく関知しないところのものである作品の固有性とは何か、テクストの固有性とは何か、その問題について触れておきたい。(つづく)

*1:もはや断るまでもないが、デリダドゥルーズが言っているのは、それを「横取り」と判定する権利の不可能性である。あるいは、そのような階層構造を予め自明のものとしてー議論を経ることなしにはー前提できない、ということである。クラウスが肝心な点を読み取れずまさに彼らを都合良く「横取り」しているということが、こうした細部において明瞭に見て取れる。

*2:したがって、クラウスのテクストには書かれていないがしかし、その紐帯を辿ることによって得られる「固有の真正性」批判には、二つの意味がある。ことデリダにおいて、真の姿を復元することによる批評は、我有化をもたらすものとして批判される。クラウスによるグリーンバーグ批判を補完するとしたら、こうした我有化のメカニズムを充てることが妥当であるように思われる。嫉妬としての批評、ないし、批評者の主観による独裁・専制である。というのも、バルトの理論が要請するような作家主体の排除は、翻って鑑賞者=批評家の主観を持ち込むための口実にしかならないように思われるからである。--そして、既に見たように、クラウスのグリーンバーグ批判はこの点で矛盾し、ワケがわからないものになっている。