ロザリンド・クラウス----批評の方法(14)

argfm2008-09-04


(つづき) R・クラウスによる「Entropy」というテクストの特徴は、このテクストを書くために用いられた方法論が、そのまま、テクストの内容として言述されるものでもあるという点にある。したがって、このテクストを読むことは、ロザリンド・クラウスによる批評の方法論を検討することと切り離せない。その方法論が到達する成果とはどのようなものか、それを以下に検討してみる。
 このテクストで採り上げられている論説は4つある。ロジェ・カイヨワ、ロバート・スミッソン、ジル・ドゥルーズ、そしてクレメント・グリーンバーグによるものという、以上四つである。クラウスの論考において、カイヨワ、スミッソン、ドゥルーズらの論説は、グリーンバーグに対するアンチテーゼとして一つの連携を成すよう編まれている。では、いかにしてこれらがアンチ・グリーンバーグのための一つの言説としてまとめられ得るのか?
 鍵となるのは、擬態する昆虫の写真である。(図)テクストに寄り添って掲載されたこの写真が何であるか、その生物が何であるか、その固有性については言及も分析もなされず、問題となっていない。周囲の環境にとけ込むような擬態であれば、「カモフラージュ」でありさえすればなんでもよいのである。したがって、我々読者の理解を助けるためのイメージとして、迷彩服を事例として選ぶ者がいたとしても、議論に差し支えはないはずである。さて、この写真に対する解説ないし標題には、ロバート・スミッソンによるエントロピーの説明が適当であると、クラウスは考える。正確には、「韻を踏んでいるように思われる」と、彼女は書いている。ここで彼女が選び出したスミッソンのコメントは、彼のアーティストとしての思考を知るためには役に立たない凡庸なものである。というのも、スミッソンは「エントロピー」を手がかりに芸術論を書いているが、ここでクラウスが採り上げた文は、彼が一般にエントロピーという概念を知らない人々に向けてエントロピーを解説している箇所であるのに過ぎないからである。別のテクスト(インタビュー)の中で、スミッソンはエントロピーを理解するための最良の例としてハンプティ・ダンプティ*1を挙げつつ解説もしているが、クラウスが引用に際し従ったであろう基準に倣うなら、ここで引用される文章はハンプティ・ダンプティでもよかったということになるだろう。だが、ハンプティ・ダンプティの例が採用されることはないだろう。なぜならば、ハンプティ・ダンプティでは、「擬態」と「韻を踏んでいるように思われ」ないからである。
 彼女がハンプティ・ダンプティではなく、別の例を選んだことは偶然だろうか?僥倖だろうか?そこには「韻を踏んでいる」ことの専横があるのではないだろうか?だが、この問題については後に言及するのでここではこれ以上こだわらず、話を先に進める。クラウスは、「擬態」と「韻を踏んでいるように思われる」どのようなコメントを選択したのか。スミッソンによるエントロピーの解説が次のように紹介されている。
 「To explain entropy he asks his reader to imagine a sandbox filled on one side with white sand and on the other with black. A little boy begins to run around the enclosure in a clockwise direction, kicking up the sand as he goes and mixing together dark grains with light. He is then told to reverse his course and run counterclockwise. This will certainly do nothing to undo the movement toward uniformity and resort the two colors into separate fields. As his legs continue to churn, the process of entropy will, irreversibly, only progress and deepen. 」
(エントロピーを説明するために、彼(スミッソン)は片半分に白い砂が、もう半分に黒い砂が入った砂場を想像するよう読者に求める。男の子が時計回りに砂場を走り回る。彼が走り回るにつれ砂が巻き上げられ、黒と白の砂は混ぜ合わされてゆく。それから彼は、向きを逆にして反時計回りに走るように言われる。明らかにこの動きは、一様さに向かう動向に逆らって元通りにそれぞれの場所に二つの色を寄せ集める、ということにはならないだろう。男の子の足がかき回しつづけるなら、不可逆的に、エントロピーのプロセスは進んで、深まる一方だろう。)
 このコメントが、「擬態」とどのように「韻を踏んでいるように思われる」のだろうか。クラウスは次のように書く。
 「For the image of the erasure of the sandbox's division between white and black seems to rhyme very nicely with the photographs from Minotaure of insects so perfectly imitating the patterns of their habitats as to vanish completely into the uniformity of one continuous texture. 」
(砂場の中で白と黒の境界が抹消されてゆくイメージは、ミノタウロス誌に掲載された、昆虫がひとつの切れ目のないテクスチャーのなかにすっかり消え去ろうとして完全に周囲のパターンを模倣している写真との、非常に見事な韻を踏んでいるように思われる。)
 明らかなのは、ここで抹消されているのはクラウスのテクストにおけるカイヨワとスミッソンとの境界であるということだ。それこそが、この並置、すなわち「韻を踏んでいるように思われる」並置の目的である。クラウスにとって、エントロピーとは「擬態」同様、境界の抹消を、固有の領域の抹消を、自我ないし主体の抹消を意味するのだとすれば、カイヨワとスミッソンとの境界の抹消など、問題ではないのかも知れない。エントロピーグリーンバーグの視覚的イリュージョンを批判するための重要な概念であると気づかせてくれたのはロバート・スミッソンであると、R・クラウスは書いている。だが、先ほど触れたインタビューにおいて、純粋芸術は抽象を自然から独立したものと解する傾向にあると前置きした上でエントロピーという概念に基づく批判としてスミッソンが述べているのは、「抽象は空虚さにおいて専制を働き、時間から自由であるかのように振る舞う」ということである。物質的因果性(「自然」)における不可逆性が重要なのであって、境界の抹消が重要なのではない。*2また、カイヨワが言っているのは、本能としての(自然現象としての)擬態という仮設であって、昆虫の擬態と人間の(文化の)擬態とがほんとうに同一の物質的因果性に基づくものであるのか否かには大いに議論の余地がある。カイヨワが人間の文化として「分類」する「擬態」とは絵画も含まれるほどに幅広いものであり、そこで証明されようとしている存在は、物質的因果性というよりは衝動だからである。したがって、スミッソンとカイヨワをクラウスが示したように重ね合わせることはかなり無理があると言うほかない。*3いったい「視覚の専制」とは、まさにここでクラウスが行っている作業そのものの謂いではないだろうか?とは言えしかし、ここで論じたいのは引用されるテクストの固有性に対する責任についてではもはやない。カイヨワとスミッソンについてはいずれ別個に論じる。ここで扱うのはクラウスの方法論である。私は、それが構造主義に由来するものではないかと考えている。だが、今後の展開に必要なネタをそろえるため、踏み込んだ話を展開する前にもう少し彼女の議論を見ておこう。(つづく)

*1:Humpty Dumpty sat on a wall.Humpty Dumpty had a great fall.All the king's horses and all the king's men couldn't put Humpty together again. ハンプティ・ダンプティが 塀の上 ハンプティ・ダンプティが おっこちた 王様の馬みんなと 王様の家来みんなでも ハンプティを元に 戻せなかった 出典 ウィキペディア

*2:ちなみに、スミッソンが挙げている砂場の例は、エントロピーの例として適切ではない。砂が着色されていなければ、物理的には、科学的には、なんの「境界の抹消」もない。だからこそ、クラウスのここでの手続きは批判的に検討されるべきなのである。

*3:しかし、別のやり方でなら、おそらく一層クラウスの意向に沿う形で、重ね合わせることもできそうに思われる。だが、そうした「視点」は、もはや結論が出ているもののように、私には思われる。だが、この時期の--とは言え90年代だが--クラウスの指向はいまだ、そこにあるのだろう。