『These fallish things』高嶋晋一展

argfm2008-10-31

この展評も長くなりそうなので、途中でアップすることにしました。なるべく早く続きを書くつもりではいるのですが。


 四谷にあるアートストゥディウムにて、年に一度、アートストゥディウムの学生ないし卒業生のアーティストを対象に行われるマエストログワント大賞の受賞者展が開催されている。今年度の大賞受賞者は二人出たらしいが、そのうちの一人、高嶋晋一の個展に行ってきた。(ちなみに私は入賞者展と優秀賞者展にも行ってきた。長くなるので今回は書かないが。)
 出品されているのはそれぞれ独立したフレームを持つ6つの映像作品である。*1会場内は明かりを落とされ、プロジェクターの投影による映像、テレビモニターによる映像、ノートパソコンによる映像という、三種類の映像から構成される。6つの作品の内の三点が隣接して展示されており、作家によれば、これらは三点で一組であるという。したがって、展示されているのは6作品4タイトルということになる。
 「One Foot on the Moon」(2005)は、斜めに立てられた白いボードの上をパフォーマーが素足で歩いているかのような映像から始まる。画面いっぱいに脛(スネ)から下だけがとらえられており、背景の空間はほとんど見えず、周囲の空間との関係はわからない。大写しにされた素足の運動がフレームアウトすることはなく、足の動きを追ってカメラが移動している。(あたかもカメラと対象との間に結ばれる不可視の直線こそが、画面空間を支配するかの如く。)画面に示されているのはこれだけであるが、しかし、一見何の変哲もないこの映像を見続けてしまうのは、その歩き方がどこかおかしいからである。何かもがいているような、滑っているような、そんな歩き方である。このことは、この作品が持つ空間のとらえどころのなさと密接に関係があるように、私は思う。
 歩くことであろうと、支えることであろうと、何かを達成しようとするときに対象となる物質を前にして、われわれは技術に従って行為する。「One Foot on the Moon」でパフォーマーが見せる動きは、白いボードとの物理的関係のなかでのある技術として規定することができる。一方が他方に働きかけ、その結果を受けて、必然的に他方が一方に働きかける。こうして、事実上は(いずれは)必然的な物質的因果性に基づいたものとして構成されていることが確信されるこの運動に対して、だが、カメラのフレームによる周囲の状況からの切り離しによって、また、カメラと対象との関係を軸線にして画面が規定されることによって、鑑賞者はそれを運動として認識することはできても、運動の働きかける力学的な方向を定めることに対して懐疑的にならざるを得ない状態に置かれ続ける。能動と受動の関係をはっきりと見定めることができず、その運動をどのような‘努力’として言い換えるべきであるのかを、すぐに理解することは難しい。「One Foot on the Moon」において、足の動きとボードの振る舞いのみがわれわれに一定の空間を想像させる手がかりであるが、その空間は錨を降ろすことなく変転し続ける。
 この遅れの時間(それがこの作品の時間でもあるが)において鑑賞者が見ることができるのは、したがって、身体とボードとの関係における‘純粋な’抵抗とリアクション、それのみである。鑑賞者である私がこの映像作品に接しているときに覚える感覚は、ちょうど、ときに他人や植物や動物に対して私たちが抱くことのあるそれとよく似ている。「それ」は運動しているし、何かに応答しまた働きかける中でその運動は生じている、「One Foot on the Moon」において、以上のことは理解できる。しかし、何に対して、何が働きかけているのかというような、運動に対する能動的な把握は宙づりにされる。言い換えれば、遠隔的な触覚による把握が宙づりにされる状態を、行為の模倣不可能性を、私有化不可能な運動を、鑑賞者は目撃する。にも関わらず、その時なおもわれわれには知覚し得るあるいは認識し得る何かが与えられているのであり、そのことが、私をこの映像作品に惹きつける。(つづく)
 

参考 →http://correlative.org/exhibition/oyo2005/takashima/more.html
ギャラリー・オブジェクティヴ・コレラティヴ →http://correlative.org/exhibition/2008/maestro/takashima/info.html

*1:高嶋晋一の作品については、『高嶋晋一作品集 Shinichi Takashima: Selected Works』がある。 →http://acolumn.exblog.jp/7992084/