ロザリンド・クラウス----批評の方法(22)中

(つづき)
  何が「文学」を、テクスト一般から区別し、諸芸術からも区別するのか。デリダによれば、文学とは近代になって創出されたものであり、その特徴が、「どんなことでも一切を言ってよい権利が原則として保証されている」という点にある。そのことによって、文学は諸々のテクスト一般から、他の芸術(たとえば古典的な詩などの)から区別される。文学の可能性とは、「全ての問いを提起する権利、あらゆる独断論教条主義を疑う権利、一切の予断、前提を、たとえそれらが倫理の前提、もしくは責任の政治学の前提であったとしても、分析する権利というような、無制限な権利と並んで進むものなのだ」と、デリダは『パッション』で書いている。こうした権利は、「知に還元できない証言」として、美的な資質や形式上の享受に還元されることのない「秘密」として、文学に‘おいて’与えられているのだと、デリダは言う。「秘密」すなわち「知に還元できない証言」であることが、文学を他の諸芸術や諸々のテクスト一般から区別する。「法なくして文学はない」のであり、「文学なくして民主主義はない」のである。
 「知に還元できない証言」、それこそが読解可能であるがゆえの「読解不可能性」である。ところで、ここで言われている「知に還元できない証言」とは、デリダによれば、意識的な主体が隠し持っている観念ではなく、無意識的な表象の内容でもない。また、キルケゴールの言う絶対的主観性(一般的なもの--たとえば媒介的な倫理の審級--をないがしろにしうるような隠された内面)でもなく、心の奥深くに潜む構想力の隠されたシェーマでも、熟練したあるいは秘技としての技芸でもない。知られることを前提とした問題ではなく、つまりは隠された解答・真実ではない。それはいかなる意味においても隠されたものではないのであり、〈適合=一致〉としての真理にも、記憶としての真理にも属さない。「文学」の条件が「知に還元できない証言」であるがゆえに、彼は形式分析の必要性と読解における形式への忠実さの必要性を認めつつも(--おそらくはテクストの不可侵性および反復可能性という理由から--)、また自らもテクストの形式分析に労力を注ぐにも関わらず、そうした分析をもまた、知に還元できるものの側に位置づけている。(形式にせよ、天才の技芸にせよ、まずは「秘密」が先立つ。というのも、開始したということ、あるいは行為の遂行それ自体を反復することはできないのであるから。)
 以上のことからも明らかなように、デリダにとって重要なのは分析者(言い換えれば「相続者」)による‘読解’における倫理と責任であり、言い換えればその主体化のプロセスであって、制作や作品についての評価を下すことではない。判断の古典的な特権すなわち、あらゆる様態付与に先立つ判断(SはPである)としての、遂行的なもの・実践的なものに対する理論的なものの特権という予断を、問いに付すのでなければならない。『先入見----法の前に----』の中で、「〜とは何か」(判断)という問いに代えて、「どのように判断するか」という問いこそが必要であるとデリダが主張するのは、この意味においてである。デリダは分析者の読解を「与える義務(責任)」と同一視している。分析者の責務は読解における支払い(たとえば給料などの)においてあり、そうした支払いを返済ないし「復元」(たとえば借金などの)と同一視すべきでないというのがデリダの主張である。*1『先入見----法の前に----』では、カフカのテクストに言及しつつ、次のように書かれている。「おそらく田舎の男は、読むすべを知らない限りで田舎の男であり、言葉をかえれば、読むすべを知っていながら、自ら読ませるべく仕向けていると思われる当のものの読解不可能性に依然として関わる限りで、田舎の男なのである。おそらく男は、法が見たり触れたりすべきものではなく、解読すべきものであることを知らないからこそ、法を見たい、それに触れたい、それに近づきその内に「入り」たいと望むのだ。」
 デリダによれば、文学は常に自分が為すこと以上のものを言わんとし、自分自身とは他のものを言い、教え、与えようとする。この意味で、文学は贈与であり、読者は一挙に負債者の位置に置かれるのだとされる。「知に還元できない証言」は、読者に、いかなる判断基準にも帰することのできないような判断を為さねばならぬという責任を生じさせる。ということは、先述した分析者の倫理は、文学作品そのものから帰結するのである。だが、なぜそう言えるのか?なぜ、「文学は常に自分が為すこと以上のものを言わんと」すると言えるのか?
 デリダはここで、優れたあるいは成功した文学作品の条件を述べようとしているわけではない。というのも、そうした「法」をプログラム化することは、有限性に囚われた範例の相続者たる我々の義務と責任(能動性、権能という意味を引き去った「自由」)を放棄することになるだろうから。なぜこの作品について語らねばならないかという理由を、デリダは主観的ではないにせよ、自らが持ち込むコンテクストにおいて(その非自己同一性において)という以外に求めることをしないだろう。したがって検討されているのは、ただ、読者を惹きつけておくような「他なるもの」が到来するための「チャンス」の条件である。(つづく)

*1:言語学者エミール・バンヴェニスト(1902〜 1976)を引用しつつ、おおよそのところ、デリダは次のように述べている。すなわち、ラテン語のdebere、debeo「義務を負う」の意味を、「ある人からその所有物を得ること(借りること)」と解すると困難に陥る。というのもその場合、「誰それのおかげである(ある人に何かを負う)」という語が、理解不能になるからだ。ラテン語のdebeoは「他人に属するものを保持する」という意味であり、ゆえに、「与える義務」が生じる。たとえば、家賃や給料を支払う義務を言い表すときは、debeo、debereを用いる。