『修行機械のサマーディ』 瀧口博昭展

四谷アートストゥディウム併設のギャラリー、ギャラリー・オブジェクティヴ・コレラティヴにて、高嶋晋一と同時に今年度の大賞を受賞したアーティスト瀧口博昭による個展『修行機械のサマーディ』が開催されている。10月31日(金)─11月16日(日)まで。11時開館、19時閉館。この作家もいいですね、初めて知りました。以下、簡単にレビューを書こうと思います。

 どこから始まってどこで終わるかという、作品において経験される枠組みは、瀧口の作品においてはどれも、作品の構造をなす因果の連鎖によって、作品の内に、作品そのものとして書き込まれている。つまり、物質的な因果関係によって構成された作品のシステムが、円環を成している。外部電源から取り入れたエネルギーを、ゆっくりと浮き沈みするほのかな光の運動へと変換する過程において必要とされる、この循環する形式(AがなければBはなく、BがなければCはなく、CがなければAはない・・という)は、熱力学第二法則に従いつつも自己を崩壊させることなく維持するという閉じたシステムである。*1
 作家によれば、こうした作品を手がける以前に、彼はゴールドバーグマシンとしての作品を作っていたが、なぜこれでなければならないのかという必然性をそこに与えることができないことに気づき、こうした形式にたどり着いたのだと言う。脱線して作家の言葉を私なりに考えてみるに、なるほど、たとえばフィッシュリ・アンド・ヴァイス(Peter Fischli 1952〜、 David Weiss1946〜2012)による『事の次第』(1987)はゴールドバーグマシンを被写体にした映像作品であるが、その作品としての枠組みは実のところ演劇(演出)としての時間構成に頼っているのであり、物語を演出するための映画的なカット割りと進行とが作品を作品たらしめている。したがって、『事の次第』が一つの焦点としてのカタルシスを必要とするのは、ある意味、必然でもある。私は『事の次第』をつまらない作品だなどとは思わない。ただ、フィッシュリ・アンド・ヴァイスによる、日用品を組み上げて構成されたオブジェ(彫刻)作品に比べると、『事の次第』はそのプロセスを魅力とするにもかかわらず同時にある種のわざとらしさを感じさせもする。因果と必然の連鎖であるゴールドバーグマシンにおいて「偶然」や「奇跡」が成立するのは、選別と排除にもとづく一つの視点を選ぶことによってであるが(百回に一回の「成功」など)、「ある種のわざとらしさ」を覚える理由は、それが‘これでなければならない’ことの「事の次第」を、示し得ていないがゆえにであるのではないか、とは思う。(だからこそ、「事の次第」は映像作品でなければならなかった、とは言えるだろう。)脱線を終わる。
 作品が「作品」である限りでの構造上の分割不可能性が、そのユニティを形成する。言い換えれば、作品を「作品」たらしめる枠はその構造上の再帰性にあるのであり、この意味においては、作品は外部からの保護を必要としておらず、つまりは著作権などの法あるいは敬意と不可触を意味する慣習的な保護膜としての枠等々を俟たずに、自らの運動によって自らを支えている。とすると、これらの作品は、自己を保持できる環境にあることを条件に(永久機関は不可能なのだから)、自らして、自らが持ち運び可能で移動可能な遍在性を持つことを示していると、言えるように思う。むろん、ここで私は法や枠が必要でないと言いたいわけではない。法や枠に先だって、それを「それ」として我々に認識させるための条件について、考えているのである。
 ところで、瀧口の作品には「枠」しかないわけではない。さもなければ、私たち鑑賞者は「それ」をそっとしておくだろうし、ことさら「それ」に気を惹かれたりすることはないだろう。とすると、これまでの記述のみから、それを作品と呼ぶことができるかのように振る舞ったのは拙速だったということになるのかも知れない。「それ」が作品となるためには、未だ何かが必要であるように思われる。
 今回展示された作品は3点あるが、そのいずれもが一種の‘スイッチ’としての機能を持つ。これらの作品を「作品」でありアートであると言いたくなるのは、素材やその素材の振る舞いが感覚に向けられたものであると感じられるがゆえにであるが、こうした感覚を可能にするのが、‘スイッチ’としての機能である。‘スイッチ’であるがゆえに、これらの素材これらの運動は、単なる趣味やフェティッシュの対象から区別され得るのではないだろうか。G・ベイトソンが言うように、スイッチは「“物体”という概念よりも、“変化”という概念に関わるものである」*2。われわれの感覚器官の引き金を引くのは変化だけである。「修行機械のサマーディ」は、深くダイブしてゆく瞑想とゆっくりと浮き上がってくる帰還とを、感覚させる。(今回運悪く私が完全な形で見ることのできたのは一点だけである。)
 今回の展示を見て、私の脳裏によぎったことはおおよそ以上のようなものだった。今の私には、これ以上話をふくらませ、かつまとめることは難しい。このへんで、レビューを終わりにする。瀧口博昭が今後どのような作品展開を見せるのかを私は心から楽しみにしている。
個展情報 →http://correlative.org/exhibition/2008/maestro/takiguchi/info.html