ロザリンド・クラウス----批評の方法(13)

(つづき)
 ロジェ・カイヨワの目論見は、自然の活動や生成を人間の目的論的理性から説明するのではなく、逆さまに、人間の行為を説明する理論を自然の活動や生成に求めることにある。カイヨワは問題提起として次のように書いている。「人間もそれ以外のものと同じように動物の一種であり、その生物学はまた他の全ての生物たちのものでもあって、人間は宇宙のあらゆる法則、重力や化学や相称、その他なにやかやの法則の支配を受けているのである。」*1たとえば、生物に見られる眼状紋は、眼に似ているから威嚇作用を持つのではなく、威嚇作用そのものなのであって、眼状紋に似ているがゆえに眼は威嚇作用を持つのである。カイヨワが「対角線の科学」と呼ぶ諸ジャンルの関連づけという方法論は、その目論見においては、表象の類似に基づく同一性の措定ないし摘出というよりは*2、分類というものが本質において事物相互の区別と裁ち直しによる観念の創造であるという信念に基づくものである。この区別をカイヨワはいたる場所で強調している。探求において信頼すべきは科学なのであり、求めるべきは普遍の原理なのである。新たな関連づけ、新たな分類が発見されなければならない。カイヨワは言う、「分類するということは、識別の基準となる様々な特質の間で、可能な限り最善の選択をおこなうということにほかならない」のであり、「視点をどこに定めるかによって、二義的なもの、あるいは問題にもならないとされているようなこれらの分類の仕方が、突如として本質的なものとなってくる場合もいぜんとして存在する」のである。以上がカイヨワによる論説の目論見および方法論の概括である。
 ロジェ・カイヨワについてはいずれ別タイトルで改めて採り上げるとして、当面の目的であるR・クラウス読解にとって必要な部分に話を限定しておくことにする。カイヨワにとって、「擬態」とはどのような「視点」において説明されるものなのか。「擬態」は擬態をとる主体にとって、有害ではないまでも無益である。*3というのも、擬態には外敵から身を守るための防護策としては役に立たないものが含まれているからである。(カイヨワは、毒もなければ食べられないわけでもない昆虫をあえて擬態する蝶がいることを例に挙げている。)擬態が必ずしも有用性を目的としているのでないとするならば、擬態の発生という問題に対してどのように答えるべきなのか。カイヨワは、それをエコノミー(節約)やエントロピー同様の、「宇宙のもつ一つの同じ有機的法則」に拠るのだと考える。ときに気まぐれや思いこみによる専制を免れない人間が作り出す絵画よりも、「自然の開花を妨害する能力のない」昆虫において「無限に反復」され生み出される擬態は、はるかに「冷ややかで不変の完成品」なのであるが、では、そうした「宇宙のもつ一つの同じ有機的法則」とは何なのか。カイヨワに拠れば、擬態を考えるための新たな分類は、「動物によって追求されたり、あるいはまた獲得されたりする結果の性質」に基づくものとなるだろう。擬態の「分類に関するもう一つ別な原理」*4とは、「変装」、「偽装」、「威嚇」の三つである。
 ここで出てきた「偽装」こそが、クラウスがグリーンバーグ批判において採り上げた 「主観性の縮小」の事例である。カイヨワが示すところでは、「偽装」とは次のようなケースを含むものである。
(a)外的な小道具を利用する場合(クモガニ類の異物隠蔽 camouflage allocryptique)。
(b)周囲の環境のもつ色彩と同化する場合(バッタ、シロフクロウ、ヤマウズラ、カメレオン、等々の保護色 homochromie)。
(c)紋の色彩が鮮やかな対照をなして、その動物の形状を打ちこわしている場合(トラ、キノボリボア属、いくつかの両棲類の分断色)。
(d)形状と色彩とを同時に用いて、背景となる周囲の植物ないし鉱物を完璧に模倣する場合(ナナフシ、コノハムシ、コノハチョウ、プテロクーザという大型のバッタなどの保護型 homotypie)。
 以上の性質は「観点を変えてみるならば」、「個体性の消滅であり、それを意図的に消し去ることであって、個体性はそこで分解し、外敵から眼をつけられないようにしてくれる」。こうした「偽装」は、「人間のものでもある様々な活動をきわめて正確に定義」している。
 カイヨワの論説をどう判断するかはとりあえず措こう。ところで、クラウスは擬態をどのように引用していただろうか。そちらを検討してゆこう。(つづく)

*1:『メドゥーサと仲間たち』ロジェ・カイヨワ 中原好文訳 思索社 1988 原著1960

*2:形象を媒介とした視覚的ダジャレという方法論は、これから採り上げるR・バルトに見られる。

*3:擬態を進化論や自然淘汰によって説明する理論に反対して、本文で言及したものの他にも、カイヨワは次のような「アンチノミー」を提示する。すなわち、擬態は恐ろしく凝ったもの、高度な形態模写であるが、そうまでしなければ外敵を欺けなかったのだとするならば、外敵はおそろしく眼が良いということになるだろう。だがしかし、それほどまでに眼がよい外敵であれば、擬態が「進化」を遂げる前に(擬態が未熟な状態で)食べてしまっただろうから、擬態の進化なるものも起こり得なかっただろう、というものだ。彼が注目するのは、なによりもまず、擬態が必要以上に凝ったものであるという点なのである。

*4:ここまでで、カイヨワは既存の学問における擬態の分類を採り上げ、吟味している。