ロザリンド・クラウス----批評の方法(15)

(つづき)
 擬態はエントロピーであり、カイヨワの語ることはスミッソンの語ることである。両者の間に区別はない。だが、こうした境界の抹消ないし侵犯は外見上のものであって、カイヨワの言説がスミッソンの言説に入っていくことも、その逆、スミッソンの言説がカイヨワの言説に入っていくこともない。区別が抹消されるのは、カイヨワとスミッソンのテクストを並置し、その「韻を踏んでいるように思われる」引用が産出する視点において、すなわち、これらを超越的に眺めることのできるクラウスのテクストにおいてのみである。つまり、そこには「主体の介入」がある。(まるでそれぞれのテクストの論理的必然性などそれ自体ではなんら力がないものであるかのごとく、クラウスのテクストによって初めて意味を与えられ価値を担うものであるかのごとく、テクストないし作品は「主体」の支配下に置かれる。)では、ここに介入してくる主体(ないし主観)とはどのようなものだろうか。
 ところで、この二つの系列の混交にもう一つの系列が加わることによって、彼女の議論はその結論を補完されることになるのであるが、このもう一つの系列が、ドゥルーズの『意味の論理学』*1中の『プラトンとシミュラクル』というテクストである。これこそが、「境界の抹消」が議論を運んでゆこうと目論むその目的地、および乗り越えようとする障害を指し示すテクストである。とは言え、こうした目的地や障害の確認によって、クラウスの視点が説明されるわけではない。なぜならば、クラウスのテクストにおいてはしばしば同一視されているかに見えるシミュラクルをめぐる論説と境界の抹消(ないし「主観性の縮小」)をめぐる論説に対しては、必ずしもその同一性(「対」)を肯定できるもののようには思われないからである。まずは『プラトンとシミュラクル』がどのような議論であるのかを簡単に確認し、のち、クラウスによる接続、対の生産を検討する。
 『プラトンとシミュラクル』はプラトニズムの転倒を目論む。ドゥルーズに拠ればプラトンの哲学は正当な系統を選別する意志に基づく哲学である。ある定義に対して、我こそは正当な系統に属するものであると名乗り出る様々な請求者たちの中から、正しいものを選別することができるのでなければならない。正しい系統を見定めるその選別の基準は、イデア(オリジナル、起源、目的の正しさ)を分有する程度に求められる。正当性を保証する類似性は事物と事物との関係ではなく、事物からイデアへの関係である。ここに、分有不可能なもの、分有されるもの、分有するもの(基礎、請求対象、請求者 / 父、息子、婚約者)という三つの要素が与えられ、そこからオリジナルとコピーの階層差が生じることになる。こうした三つの要素および階層差において、コピーはオリジナルの分有であるから正当性に与っている。だが、そうした正当な系統に属さない偽の請求者がおり、それがシミュラクルと呼ばれる。シミュラクルは類似性なきイマージュ(幻影)である。*2したがって、シミュラクルは劣化したコピーではない。シミュラクルとコピーの間には本書上の差異がある。『ソピステスソフィスト)』においてプラトンは、正しい請求者を判定するのではなく、偽の請求者を追い詰めることによってシミュラクルを定義しようとする。シミュラクルの側で探検するがゆえに、ここにはプラトニズムの最も異常な冒険が含まれている、とドゥルーズは言う。「異常な冒険」である『ソピステス』においてプラトンが発見するのは、シミュラクルによるオリジナルとコピーという階層に対する脱構築である。シミュラクルは、コピーとは何かという判断のあり方そのものを問いただす。これが、プラトニズムを転倒するということ(破壊ではない)の意味である。*3
 シミュラクルとは何か。ドゥルーズは次のように書いている。「シミュラクルは劣化したコピーではなく、オリジナルとコピー、モデルと再現を否定する積極的な力能を隠匿している。シミュラクルに内在化される少なくとも二つのセリーについて、どちらかをオリジナルやコピーとして指定することはできない」。つまり、(ドゥルーズはそういう言い方をしていないが話をわかりやすくすると)、シミュラクルは定義上、イデア(オリジナル)に関係づけられること無しに、ということはシミュラクルそれ自体において偽物であること、偽の類似であることを示さねばならないが、しかし、それは不可能である。というのも、シミュラクルを偽の請求者であると判定するためには、言い換えれば類似と同一性(反復)を判断するためには、少なくともシミュラクルそれ自体が二つ以上のものによって構成されていなければならないが、しかし、この二つ以上のもの、「内在化される少なくとも二つのセリーについて」、オリジナルと関係づけられること無しに、「そのどちらかをオリジナルやコピーとして指定することはできない」からである*4つまり、シミュラクルの考察によって、オリジナルのオリジナリティが問われることになる。シミュラクルが〈オリジナル=コピー〉によって構成される正当性の系統を問いただすのは、その「起源」の決定不能性を明らかにするがゆえにである。簡単に言えば、類似と同一性は、二つの[異なる]ものが並置されること、関係づけられることに先だって存在することはない、ということである。(それで十分であろうか?)
 シミュラクルの例を挙げるなら、ひとつにはドゥルーズが「カバン語」と呼ぶものがある。「カバン語」とは、一度に二つのセリーの意味に関わる語であり、同時に複数のことを語る。ルイス・キャロル(1832〜 1898)が作り出した「カバン語」である「湯気怒った(怒ったと湯気立ったの総合)」は、「湯気-怒る」と「怒った-湯気立った」という二つの意味を持つ。つまり、「カバン語」に内在する二つのセリーのうち、どちらからどちらへ向かうのかというベクトルの違いによって、決して重ね合わされることのない意味が二つに分岐するのである。婦人が老婆になることと老婆が婦人になること、あるいはウサギがアヒルになることとアヒルがウサギになることとの間で、分離と分岐がある。*5「カバン-語の実在的定義を与えるのは、分岐させる機能、あるいは、分離の総合である」。
 シミュラクルによって類似や同一性そのものまでもが廃棄されるわけではない。類似性は各セリーを共鳴させるために存続し、同一性は各セリーの同一性を生み出す法則として存続する。簡単に言えば、ドゥルーズの結論は、異なるものだけが似ているのだというアイデアを手がかりに様々な差異を肯定することにある。
 ここで私はドゥルーズの議論を紹介することを中断し、彼の哲学にこれ以上深入りすることはしない。少し脱線するが、私にとってシミュラクルから展開したドゥルーズの哲学が興味深いものとなるのは、言語というもののリアリティを間接話法に求めている点にある。言語は情報の伝達を目的とした指標記号には還元されない。すなわち、「その対象が除かれると直ぐにそれを記号にしている特性を失ってしまうが、解釈項がなくてもその特性を失わないような記号」というだけのものではない。フェリックス・ガタリとの共著である『ミル・プラトー』において、ドゥルーズは次のように書いている。「(バンヴェニストによれば)蜜蜂は自分の見たことを伝えることはできるが、自分に伝えられたことをさらに伝えることはできないから言語をもたないのだ。蜜を見つけた蜜蜂は、それに気づかない仲間にメッセージを送ることはできるが、蜜に気づかなかった蜜蜂が、やはり蜜に気づかなかった他の蜂にメッセージを送ることできないのだ。言語は、第一の人から第二の人に、目撃した者から目撃していない者に伝わるだけでは十分ではない。必ず、事柄を見なかった第二の者から、やはり見ていない第三の人にも伝わらなくてはならない。」*6作品には「言語」としての側面がある。この「言語」としての作品の条件を考察するために、ドゥルーズドゥルーズ=ガタリバンヴェニスト)の論説は有用であるように思われる。ただし、そこで考察されている言語における事物としての側面がどこまで有効であるのかという点については疑問が残り、この点について今現在の私には判断がつきかねる。(物質的因果性と論理的因果性の共存という領域が、私の関心の。問題の所在である。)いずれは検討せねばならないことのように思われる。脱線を終わる。
 クラウスに戻ろう。『プラトンとシミュラクル』が、クラウスの行った混交を正当化するための論理的支柱を、同時に、グリーンバーグを批判するための動機(大義)を授ける。彼女がドゥルーズを参照するのは、主に、オリジナルとコピー、およびシミュラクルの区別を、ドゥルーズが批判している件である。彼女に拠れば、ドゥルーズの批判は視覚的イリュージョンの批判として適当であるということになる。(つづく)

*1:『意味の論理学』 ジル・ドゥルーズ著 小泉義之訳 河出文庫 2007 原著1969 法政大学出版局版1987

*2:エクリチュールはシミュラクルである。この点について、ドゥルーズは原註において、デリダの著作『プラトンパルマケイアー』を参照するよう促している。ただし、テクスト末尾に付された意味のとりにくい断言はデリダ脱構築を批判するものとしても読めるように思われるのであるが。もっとも、ドゥルーズはしばしば自分と文脈を共有しているものにしか分からないメッセージをテクストに書き込むため、この一文もそのようなものとしてしか捉えられず、私にはハッキリしたことは言えない。←削除

*3:岡崎乾二郎は『プラトン『国家』を読む』というテクストの中で、プラトンイデアを事物の法に従う技術的必然として捉え直すことで、「正しさ」を再定義している。ドゥルーズが依拠する主観としての時間とは異なる領域での時間についての考察であり、そこでは、ドゥルーズが言及し得なかった(と私には思われるのだが)、「創造」としての諸事物の総合における必然を批判的に考察するための議論が提供されているように思われる。  〜『述1』近畿大学国際人文化学研究所紀要 明石書店

*4:レンブラントの贋作があったとして、レンブラントのオリジナルを知らない鑑賞者にとっては、その作品のみからは、贋作であるか真作であるかの判別がつかない、ということである。

*5:ドゥルーズの著作『差異と反復』において、「時間の第三の総合」と呼ばれる「反復」。

*6:『ミル・プラトー』 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著 宇野邦一小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳 河出書房新社1994 原著1980