ロザリンド・クラウス----批評の方法(18)

(つづき)
 では、何が想像力の運動そのものであると言われるのだろうか?バルトに拠れば、この物語は二つの隠喩のセリーから成っている。一つは「円形」のセリーであり、もう一つは「液体」のセリーである。それぞれのセリーにおける語の隠喩的変換によって、物語は進んでゆく。たとえば第一のセリーすなわち「円形」のセリーにおいては、「目玉」〜「ミルク皿」〜「動物の睾丸」といった隠喩の連鎖がある。「ぐにゃぐにゃした光」とか「空の尿化」が隠喩のセリーに合流するためには、太陽が円形であり、球体であるだけで充分である。こうした連鎖においては全てが等価であり、そのことが、『眼球譚』を「深みのない作品」すなわち「どんな隠れた意味にも到達しない」作品たらしめる。ここで起源なき、「順序不定の」連合の等価性は、形象に基づいている。「眼」は、「眼の隠喩の「乗り継ぎ点」であるモノが遍歴するためのマトリクス」なのである。
 それぞれのセリーは文を生み出さない。潜在的な記号の蓄えである隠喩は、それだけではディスクールを成り立たせることはできない。文が生み出されるためには、二つのセリーが結合されるのでなければならない。「目が泣く」とか、「割れた玉子が流れ出る」といったように。だが、こうした文は何の情報も含んでいないと、バルトは言う。カントによる区別に倣って言えば、これらは分析的判断にすぎない、というわけである。「玉子とは割るものであり、目玉とは抉るものではないか?」。だが、『眼球譚』における技法は、平凡さからも不条理からも隔たったイメージを情報を生み出すのであり、二つのセリー間における交換を混乱させることによって、「目玉を割り」、「玉子を抉る」という文章が得られるのである。ここでバルトは、『眼球譚』にシュルレアリスムの乗り越えないし完成を見ている。シュルレアリスムによるイメージの法則、すなわち「二つの現実の関係がそれぞれかけ離れていて的確であればあるだけ、それだけイメージは強烈になる」という法則を、バタイユは狂気においてでも奔放さにおいてでもなく、「はるかに緻密」な規則性(「拘束」)に基づいて成し遂げるからである。それは観念連合の結節をほどく交叉なのだと、バルトは書く。この二つのセリーにおける交換の運動が、想像力の運動である。「現実界をアレンジするだけで満足する小説的な想像力」ではなく、「それと違って否応なく絶対に想像的であるもののさまざまの《化身》」、すなわち、言語の化身による運動である。
 バタイユによる詩の技術とは、モノ同士の日常的な隣接関係を解体して、各々の隠喩の内部でただ一つのテーマが執拗に存続することによって、特性と行為との全般的伝染とでも言うべきものを生じさせるのであり、この技法は、バタイユのエロティシズム(境界の侵犯)と一体化しているのだと、バルトは結論づける。「雄牛の睾丸を玉子のように噛み、あるいは肉体の中に入れる」といった連合は、「同時に同じものでもあり別のものでもある」。それが、「意味の震え」である。用途や意味、空間、固有性などの「分担侵害」、それこそがエロティシズムである。「世界は混乱してくる。固有性にはもはや区分がない」のである。
 以上が、ロラン・バルトによるバタイユ論『眼の隠喩』の要約である。ロザリンド・クラウスにとって『眼の隠喩』が「価値ある発言と考えられる問題提起」を可能にするような「ある所与の方法」として映じたとすれば、この理論が固有性の侵犯を、モダニズムが前提とするようなジャンルの固有性に対する侵犯の可能性を示しているように思われたからであり、クラウスが執拗に批判し続ける(だがその論拠がいまだに明快ではない)主体が不在であるから、すなわち「いかなる特権的な事項もない」からであるだろう。この理論をもって、クラウスはピカソを、ジャコメッティをも論じてゆく。
 だが、バルトにとってこれは「想像力の運動そのもの」の分析であり、彼が言うところの「詩」の条件についての分析である。クラウスがバルトのテクストを引用する際に、その比較的正確な要約にも関わらず常に言い落としているのはこの点である。言い換えればバルトがバタイユに見て取った「技法」とは、「絶対に想像的であるもの」すなわち言語によって、もっと正確に言い直せば語を媒介とした形象や諸感覚によって可能となるような「詩」を生み出すためのものなのであり、その目的は「エロティシズム」に、そこにおいて「固有性にはもはや区分がない」ような「世界の混乱」にあるのだ。
 クラウスの最大の混同は、「エロティシズム」と「シミュラクル」の間での混同にある。そのことは、以下の文を参照すれば明瞭になろう。クラウスは書いている。「アンフォルムを、かたちそれ自身が作り出すものと考えよう、論理が、論理的に、それ自身の内部でそれ自身に反して振る舞うように、かたちは、異質混交論理(ヘテロロジック)を生み出すのである。それを、かたちの反対物としてではなく、かたちの核心において作動している可能性であり、それを内側から浸食していくものであると考えよう。つまり、構造的に、正確に、幾何学的に、時計仕掛けclockworkのように作動しているworkingものと。フランス語でこのことを捉えている言葉は、de(')jouerというものだ。これは「裏をかく」とか「困らせる」とか訳すことができる。だが、それではゲームやルールや構造に関わるアクションの部分が落ちてしまう。まさにルールに従う行為によってゲームを不安定にしてしまうという構造に関わる部分が。ある種の「ミスプレイ」を、しかし、システムの中では合法であるようなそれを創出すること。」*1この文に続けて、「ミスプレイ」の論理としてバルトの『眼の隠喩』が引用されているわけである。
 だが、クラウスのテクストにおいて「ミスプレイ」とは「不均等・差異」の否定であり、固有性の抹殺であるような「ミスリーディング」の謂であることを、もはや断る必要はあるまい。われわれは「Entropy」において、「固有性にはもはや区分がない」ような「世界の混乱」を見て取ったばかりである。「不定形」とは、クラウスにとって批評の内容であると同時に、自らの批評における方法論でもある。そして、このことに起因するより一層致命的なこととは、クラウスのテクストそれ自体の固有性が抹殺されることにある。批評がいかなる固有性にも捉えられることなく、そのことによってはじめてその無限の適用可能性を与えられるのだとするならば、それこそがクラウスの言う構造主義に由来する「方法論」の意味であるが、だとすれば、そこにおいて「内在化される非相似」すなわち「不均等・差異」における「同一性」は、決して捉えられないことになるだろう。そしてまた、異なるものの「類似」も、ミメーシスも考察されることはないだろう。言い換えれば、なぜこれらがここ(テクスト)に並べられているのかを説明するための論理を、テクストそのものの固有の論理を、クラウスは持っていないのである。
 むろん、一方で、批評は単なる主観への開き直りであり続けることもできないだろう。クラウスが懸命に叩こうとしてきたのは、「私が見ている」という意識そのものの記述に過ぎないような「批評」であった。主観における表象にすぎないこうした記述は、なぜそれを採り上げねばならないのかを、他と区別されたナニモノカの特殊性を、自ら示すことはできないだろう。再びデリダとクラウスを採り上げれば、なるほどデリダは「現象学者は知覚される物事ではなく、物事についての知覚を記述する。」と述べて、現象学を批判している。「私は死んだ」という不条理な語句の可能性が、あらゆる言語活動の条件であり、死という主題は現象学的な目論見の限界を示している。クラウスがカイヨワの事例を用いた理由は、おそらくカイヨワをしてデリダの思想の「シミュラクル」たらしめんと考えたがゆえにである。だが、クラウスの間違いは、そもそも反復可能性なるものが客観的に認識され得るための条件について、一顧だにしていないことにある。言い換えれば、反復不可能性であれ反復可能性であれ、まずは反復されるということがいかにして成り立つのかという議論が先行するのでなければならない。(つづく)


 今回の文章は、一度投稿したものを書き改めたものです。その間、10ほどアクセスカウンターの数が増えました。以下に、改稿する前の文を掲載しておきます。読まれたくない文章なので、読みにくく抹消線を引いてあります。
*p1*[読書]ロザリンド・クラウス----批評の方法(18)
(つづき)
 では、何が想像力の運動そのものであると言われるのだろうか?バルトに拠れば、この物語は二つの隠喩のセリーから成っている。一つは「円形」のセリーであり、もう一つは「液体」のセリーである。それぞれのセリーにおける語の隠喩的変換によって、物語は進んでゆく。たとえば第一のセリーすなわち「円形」のセリーにおいては、「目玉」〜「ミルク皿」〜「動物の睾丸」といった隠喩の連鎖がある。「ぐにゃぐにゃした光」とか「空の尿化」が隠喩のセリーに合流するためには、太陽が円形であり、球体であるだけで充分である。こうした連鎖においては全てが等価であり、そのことが、『眼球譚』を「深みのない作品」すなわち「どんな隠れた意味にも到達しない」作品たらしめる。ここで起源なき、「順序不定の」連合の等価性は、形象に基づいている。「眼」は、「眼の隠喩の「乗り継ぎ点」であるモノが遍歴するためのマトリクス」なのである。
 それぞれのセリーは文を生み出さない。潜在的な記号の蓄えである隠喩は、それだけではディスクールを成り立たせることはできない。文が生み出されるためには、二つのセリーが結合されるのでなければならない。「目が泣く」とか、「割れた玉子が流れ出る」といったように。だが、こうした文は何の情報も含んでいないと、バルトは言う。カントによる区別に倣って言えば、これらは分析的判断にすぎない、というわけである。「玉子とは割るものであり、目玉とは抉るものではないか?」。だが、『眼球譚』における技法は、平凡さからも不条理からも隔たったイメージを情報を生み出すのであり、二つのセリー間における交換を混乱させることによって、「目玉を割り」、「玉子を抉る」という文章が得られるのである。ここでバルトは、『眼球譚』にシュルレアリスムの乗り越えないし完成を見ている。シュルレアリスムによるイメージの法則、すなわち「二つの現実の関係がそれぞれかけ離れていて的確であればあるだけ、それだけイメージは強烈になる」という法則を、バタイユは狂気においてでも奔放さにおいてでもなく、「はるかに緻密」な規則性(「拘束」)に基づいて成し遂げるからである。それは観念連合の結節をほどく交叉なのだと、バルトは書く。この二つのセリーにおける交換の運動が、想像力の運動である。「現実界をアレンジするだけで満足する小説的な想像力」ではなく、「それと違って否応なく絶対に想像的であるもののさまざまの《化身》」、すなわち、言語の化身による運動である。
 バタイユによる詩の技術とは、モノ同士の日常的な隣接関係を解体して、各々の隠喩の内部でただ一つのテーマが執拗に存続することによって、特性と行為との全般的伝染とでも言うべきものを生じさせるのであり、この技法は、バタイユのエロティシズム(境界の侵犯)と一体化しているのだと、バルトは結論づける。「雄牛の睾丸を玉子のように噛み、あるいは肉体の中に入れる」といった連合は、「同時に同じものでもあり別のものでもある」。それが、「意味の震え」である。用途や意味、空間、固有性などの「分担侵害」、それこそがエロティシズムである。「世界は混乱してくる。固有性にはもはや区分がない」のである。
 以上が、ロラン・バルトによるバタイユ論『眼の隠喩』の要約である。ロザリンド・クラウスにとって『眼の隠喩』が「価値ある発言と考えられる問題提起」を可能にするような「ある所与の方法」として映じたとすれば、この理論が固有性の侵犯を、モダニズムが前提とするようなジャンルの固有性に対する侵犯の可能性を示しているように思われたからであり、そこには「いかなる特権的な事項もない」からであるだろう。この理論をもって、クラウスはピカソを、ジャコメッティを論じてゆく。だが、バルトにとってこれは「想像力の運動そのもの」の分析であり、彼が言うところの「詩」の条件についての分析である。言い換えればその「技法」とは、「絶対に想像的であるもの」すなわち言語によって、もっと正確に言い直せば語を媒介とした形象や諸感覚によって可能となる「詩」を生み出すためのものなのであり、その目的は「エロティシズム」に、そこにおいて「固有性にはもはや区分がない」ような「世界の混乱」にあるのだ。
 クラウスは書いている。「アンフォルムを、かたちそれ自身が作り出すものと考えよう、論理が、論理的に、それ自身の内部でそれ自身に反して振る舞うように、かたちは、異質混交論理(ヘテロロジック)を生み出すのである。それを、かたちの反対物としてではなく、かたちの核心において作動している可能性であり、それを内側から浸食していくものであると考えよう。つまり、構造的に、正確に、幾何学的に、時計仕掛けclockworkのように作動しているworkingものと。フランス語でこのことを捉えている言葉は、de(')jouerというものだ。これは「裏をかく」とか「困らせる」とか訳すことができる。だが、それではゲームやルールや構造に関わるアクションの部分が落ちてしまう。まさにルールに従う行為によってゲームを不安定にしてしまうという構造に関わる部分が。ある種の「ミスプレイ」を、しかし、システムの中では合法であるようなそれを創出すること。」*2 *3
 だが、「ミスプレイ」とは「不均等・差異」の否定であり、固有性の抹殺であるような「ミスリーディング」の謂であることを、もはや断る必要はあるまい。われわれは「Entropy」において、「固有性にはもはや区分がない」ような「世界の混乱」を見て取ったばかりである。「不定形」とは、クラウスにとって批評の内容であると同時に、自らの批評における方法論でもある。だが、批評がいかなる固有性にも捉えられることなく、そのことによってはじめてその無限の適用可能性を与えられるのだとするならば、それこそがクラウスの言う構造主義に由来する「方法論」の意味であるが、だとすれば、そこにおいて「内在化される非相似」すなわち「不均等・差異」における「同一性」は、決して捉えられないことになるだろう。それを「遺産」と呼ぼうが、「技術」と呼ぼうが、様々であるだろうが、いずれにせよ。そしてまた、異なるものの「類似」も、ミメーシスも考察されることはないだろう。
 むろん、一方で、批評は単なる主観への開き直りであり続けることもできないだろう。クラウスが懸命に叩こうとしてきたのは、「私が見ている」という意識そのものの記述に過ぎないような「批評」であった。主観における表象にすぎないこうした記述は、なぜそれを採り上げねばならないのかを、他と区別されたこれの特殊性を、自ら示すことはできないだろう。作品との出会いを驚きとしてあるいは落胆として、いずれのかたちで表現するにしても、彼はその理由を、「質」の区別を、決して客観的に示すことはできないだろう。特殊にして普遍という問題は、芸術家のためにばかりあるのではない、批評家もまた、この問題を無視することはできない。*4
 「「ミスプレイ」を、しかし、システムの中では合法であるようなそれを創出すること。」と、クラウスは書く。最後に、シミュラクルにおける反復という問題を再考して、論を閉じることにする。

*1:『視覚的無意識』

*2:『視覚的無意識』

*3:バタイユが「足の親指」として論じたのは、問題なしとは言えないにせよ、「人間の足の機能は、人間が大いに誇りとしているこの直立に、強固な基礎を与えることにある」にもかかわらず、「天と天にあるものに向けられた頭を持つ人間は」足の親指をまるで「痰」のようにみなし、排除しているということである。「痰」すなわち「不定形」である。血液は上から下へも、下から上へも等しく流れているにも関わらず、人間生活は一つの上昇であるかのように誤って考えられている。これが、「足の親指」の批判的意義である。

*4:私はクラウス批判を自己への批判無しに書いているわけではない。私にとって、何かを書くということはつねに自分の書いたもの作ったものへの批判を含んでおり、さもなくば面白くない。間違っているかも知れないが。