ロザリンド・クラウス----批評の方法(17)

(つづき)
 「Entropy」の結論部を見ておこう。なぜ、クラウスにおいてシミュラクルとエントロピーが合流するのか、なぜそれがグリーンバーグ批判たり得るのか、その理由がこの部分にある。クラウスがグリーンバーグを批判するのは次のような理由による。
 「Reflexive modernism wants to cancel the naturalism in the field of the object in order to bring about a newly heightened sense of the subject, a form that creates the illusion that it is nothing except the fact that "I am seeing [it]."The entropic, simulacral move, however, is to float the field of seeing in the absence of the subject; it wants to show that in the automatism of infinite repetition, the disappearance of the first person is the mechanism that triggers formlessness. 」
(反省的なモダニズムは、主体の新しく高められた感覚をもたらすために、客体の領域において自然主義を削除するよう求める。それは、「私が見ている」という事実以外の何ものでもないというイリュージョンを生み出すような一つの形式である。だが、エントロピーとシミュラクル(の運動)は、主体の喪失において見るという領域を想起させるものである。「最初の人間」の消滅が不定形への契機であることを、無限の反復というオートマティスムは示そうとする。)


 ここでクラウスが「無限の反復というオートマティスム」と呼んでいるのは、R・スミッソンの『Enantiomorphic Chambers』 (1964)(画像を参照)という作品についての経験のことである。私はこの作品を実見したことがないため、ここではクラウスの記述に言及するにとどめる。クラウスによれば、『Enantiomorphic Chambers』 は、鑑賞者を挟みこむように置かれた向かい合わせの鏡からなる作品であり、向き合った鏡の間で多様に分岐しつつ反射するという鑑賞者の凝視の軌道を、観察させるものである。クラウスが強調しているのは、こうした経験は「構造的な盲目性」とでも呼ぶべきものであって、その視線(凝視の軌道)はこの作品の空間を超越的に占有するものではない、ということである。というのも、彼女に拠れば、こうした映像の乱反射ないし‘鏡の部屋’は、時間的成層によって成り立つと同時にその混乱を、「真の映像」の喪失をも意味するからである。(なればこそ、ひとは‘鏡の部屋’で迷う。・・・・・のか?)分割された面に映る映像は多様に分岐し、そのそれぞれの消失点は非統合的なものである。置換におけるこのめまい、「真の映像」の喪失(「非統合的な消失点」)、これが、「空間のどこにも場所をまったく持たないという一種のシミュラクルの込み入った謎」である、と言われる。
 だが、スミッソンの作品はさておき、彼女の分析にシミュラクルが援用されることが妥当でないことは既に確認した。クラウスの論説において重要なのはシミュラクルというよりは境界の侵犯であり、異種混交である。それは、かたち以前であるような内と外が反転する迷宮についての論理である。この「Entropy」というテクストにおいて彼女が実践しているように。それこそが、「主体の喪失において見るということの領域」すなわち「formless 不定形」を開示すると、クラウスは考える。「formless」こそは、グリーンバーグによる視覚の専制を、「反省的なモダニズム」を批判する原理であり、少なくとも彼女の「思索様式」にとっては真の原理なのである。彼女がグリーンバーグを批判するのは超越的な主観的視点についてであって、その「抽象性、空虚さ」(R・スミッソン)においてでは必ずしもない。だが、クラウスもまた、その一貫した主体性批判の目論見にも関わらず、既に何度か指摘したように、ある種の主体による統制が約束するだろう安定に従っているのであり、「抽象」的なシステムの枠内において全てを判断している。つまり、超越的な視点が確保されている。*1
 「formless」の思考とはどのようなものか。『視覚的無意識』というテクストにおいて、クラウスは「「formless」不定形」を説明するためにR・バルトによるテクスト『眼の隠喩』*2を参照している。『眼の隠喩』とはどのようなテクストなのか、以下に簡単に見ておこう。
 『眼の隠喩』は、ジョルジュ・バタイユが書いた文学作品『眼球譚』の構造を分析したテクストである。バルトは、このエロ小説を「詩」として読むのだと宣言する。バルトに拠れば、文学と詩とは異なる。というのも、文学は現実と想像の混交物でありしたがって「ありそうなもの」であるが、「詩」は想像力そのものにおいてしか運動し得ない作品すなわち「ありそうにないもの」だからである。バタイユの『眼球譚』は、想像の産物ではない、そうではなくそれは想像力の運動そのものなのであり、したがって「詩」なのだと、バルトは言う。(つづく)


ロバート・スミッソンの作品、文献が参照できるサイト→http://www.robertsmithson.com/sculpture/4.htm

*1:この時期のクラウス、と付け加えておく。

*2:バタイユの世界』 清水徹出口裕弘編 青土社1978