経験したことのないものを経験することについて

argfm2008-12-12


 なぜこの作品が重要であるのか、なぜこの作品を参照したりあるいは保存したりする必要があるのか、こうした問いを批評が回避し続けるなら、「売れ行き」や評者の主観や同時代性といった現在性にのみ基づいて「批評」が為されるなら、作品の命運は現在性を演出する力(哲学者のジャック・デリダが「人為時事性」*1と呼んで批判するもの)次第ということになってしまうのではないか。言い換えれば、なぜ、作者ではない誰かが作者ではない他者に向けて作品を送り届ける必要があるのかということへの問いかけと論理が不在であるとしたら、そのとき、「売れ行き」によっては判断し得ないものにアクセスする自由は失われるのではないか。こうした問いは、出版社やギャラリー、美術館等にとって誠実さを試される大問題ではないだろうか。なぜなら、そのとき、もはや、‘これは売れないかも知れないが今(なお)出版する(展示する)べき作品である’といった主張を、いかなる利害関係からも離れて公正になすことはできなくなるだろうからだ。
 今日、一般には、こうした問題はほとんど行政や立法に訴えるべき問題として、行政や法律によって保護されるべき事柄として議論されているように見える。こうした議論ないし政策の提案はもちろん必要である。だが、これら保護についての議論はすべて、主張の正当性を得るための手続きや依拠する概念が異なるとはいえ、不可侵不可分な唯一性が、判断のつかない事柄が、法律や行政によって保護されることの必要性を説いているという点において、誰が、何のために、なぜそれを保護しなければならないかという問いを検討する必要がない。(ゆえに、政治家がそのような問いを発するなら、我々は彼にその任を預けるべきではない。)システムが循環するループを成している限り、そのことが、こうした問いを不要なものにするからだ。(同時に、ゆえにまた、行政や法律は予め定められた枠組み--たとえば国家、国民などの--を超えるもの・ループから外れるものを、保護の対象から外す。)
 だが、作品を論じるということは、不可避的に選択であり判断であり、かつ、そうした選択や判断そのものへの批判でもあるがゆえに、予め与えられた枠組みに支えられる作品の不可分不可侵な唯一性の尊重をその根拠とすることはできない。枠組みに先立つ判断を、経験的でも超経験的でもないような仕方で下すことができるのでなければならない。「人為時事性」によっては判断し得ないものについて立てられる、何を守るべきか、「なぜ、作者ではない誰かが作者ではない他者に向けてこれを送り届ける必要があるのか」という問いは、法律や枠組みに基づく唯一性に拠ったところで、たとえそうしたものを前提としなければならないときであっても、答えることはできない。
 私がデリダを読むのはこうした関心からである。そしてまた、制作者としてであれ評者としてであれ、私が自分のものとしようとするこれらの問いを、私はデリダ以上に多く岡崎乾二郎に負っている。とは言え、ここで私は直接岡崎に言及することはしない。私もまた、多くの人々同様、できる限り別ルートを開拓し、自分が納得するまで考え抜く必要があると考えているからだ。(私は岡崎乾二郎の教え子であり彼への尊敬を常日頃公言してはばからない者の一人であるが、私の書くものが「道徳的狂熱」(カント)に依存するものでないことを証す作業は別タイトルにおいて行う予定でおり、その中でここでの議論をまた別の形で展開しつつ、岡崎乾二郎に触れる予定でいる。)
 だが我々は、枠に先だつような何を判断するというのか。「なぜ、作者ではない誰かが作者ではない他者に向けてこれを送り届ける必要があるのか」という問いは、作者が参照したであろう指向対象・出来事(作者の内面のようなものもまた)が同定不可能なときでさえ、送り届けることができる何かがあるということを前提としている。言い換えれば、枠に頼らない遍在性において経験したことのないものを経験する可能性を前提としている。この可能性を、デリダは「読解可能性」と呼ぶ。
 デリダによれば、ある文学作品を読むためには、言い換えればある文学作品が「読解可能」であるためには、読者と物語との間の経験の共有は必ずしも必要ではない。経験したことのないものを経験することが読書というものであり得るのだから。また、同じ理由から、ある物語が読解可能であるためには、それが現実に起こった事柄であるという保証が必要であるわけでもない。「同じ」一つの出来事がまったく同じ二つの作品を生むわけではない。文学作品における「読解可能性」の条件とは言語運用能力の共有であり、言語運用能力は反復可能性を前提としている。反復可能性とは内実なき反復の、オウム返しの、嘘をつくことの可能性である。(たとえば、もし、他者が私の言うことを私が言おうとするとおりの内容で理解するということがなければ、私は嘘をつくことができない。)ここで重要なのは、読むという経験がそれ自体で一つの独自な経験として成立するためには、作品そのものにおける、内実を欠いた、空疎な反復可能性が読者に共有されているのでなければならない、という点である。(ここで「内実を欠いた」とは、ある語が、その指示対象と一義的に対応することを保証されていない、ということである。)したがって「読解可能性」とは、作品が「経験したことのないものを経験する」ようなメディウムとなるための条件である。「読解可能性」が作品をして「経験したことのないものを経験する」ものたらしむる条件であるとするなら、「読解可能性」とは批判の、希望の可能性の条件ではないだろうか。(文学作品を常に政治との関連において、つまり文学作品を合法性に対する倫理的なるものとして読もうとするとき、デリダは、範例(法)を争うためのその立法的な力を文学は言語の行為遂行性から得るのだと考えている。)
 ところで、文字言語による文学作品と美術作品が異なる点はこうした読解可能性の条件にあるように思われる。(続く)

*1:『テレビのエコーグラフィー デリダ〈哲学」を語る』 ジャック・デリダ+ベルナール・スティグレール 原宏之訳 NTT出版 2005