ロザリンド・クラウス----批評の方法(22)前

 思った以上に難しいテクストでした・・・・。長くなりそうなので、ここらへんでアップしておきます。


(つづき)
 カフカの『法の前に』という小説をデリダが採り上げるのは、「法の歴史と文学の歴史を一緒に考えることの必要性という仮説」においてであった。この仮説が要求する検証とは、文学固有の領域とは何かという問いについての考察ではなく、文学固有の領域とは何かという問いの面前に、『法の前に』というテクストを出頭させる訴訟の特異性についての考察を行うこと、である。言い換えれば、『法の前に』というテクストを、法と特異性の「出会いなき葛藤」を物語るものとして読むこと、である。
 「作品なくして、絶対的に特異な遂行なくして文学は存在しない」のであり、特異なものが普遍的なものに交叉する時、ひとは「文学に困難を感じ」、問いを発し、「作品、オーパスは領域に所属するのではなく、領域を変形する」ものとなる。そうした領域の変形なしには、言い換えれば「文学の枠からはみ出る必要」がなければ、文学はない。「文学が文学そのものであったなら、もはや文学は文学ではないだろう」と、デリダは言う。(おそらくは、そうした「特異なもの」を、彼は予め規定することができないような、プログラム化し得ないような「他なるもの」と呼ぶのだろう。)もし、デリダによるこの文学の定義を受け入れるのであれば、文学の歴史は文学の条件である。というのも、作品なしに文学はないのであるから。そして、こうした歴史は、作品を範例として尊重するための法が成立する歴史と「本質的かつ密接な関係を保持している」のである。(だが、こうした分析はデリダも認めるように、他の芸術と文学の区別を規定するものではないし、のみならず、テクストというもの一般にあてはまるように思われる。この点については最後に論じる予定なので、ここではこれ以上深入りしない。)
 カフカの物語において、法の前には門があり門番が立っている。田舎からやってきた男は法の中に入れてくれるよう門番に頼むが、待ちぼうけを食わされる。男はいつまで待っても(死の時を迎えても)、門の中に入れてはもらえない。ここで、法の現前は禁じられており、遅延させられているのであり、そのことが、この物語なき(出来事なき)物語を開始させ、物語の時間を可能にする。デリダに拠れば、『法の前に』という作品は文学という制度を、あるいは文学の条件が課すアポリアを、間接的に語っているものとして読むことができる。デリダは次のように書いている。「『法の前に』という物語は、テクストとしての自己自身をしか物語りはしないだろうし、記述しはしないだろう。それはそのことしかしないだろう、あるいはそのこともまたするだろう。だが、何らかの自己指向的な透明さを確信した思弁的反省においてそうするのではなく、私はこの点を強調しておくが、テクストの読解不可能性においてそうすることだろう。」つまり、その「読解不可能性」および「接近不可能性」においてテクストは自らを守っている。テクストこそが法であり、「法を作り[テクストが支配者であり]読者を法の前にうち捨てておくのである」。ゆえに、『法の前に』という作品は、「絶対に触れえないテクストであり続ける」。「読解不可能性」、把握不可能で理解も不可能であるような「触れえなさ」が、テクストを「オリジナル」なものにする。ここで言われている「オリジナル」とは、このテクストを変形すること、ないし手を加えることが禁じられているということであり、このテクストが最終的な基準を構成するということである。言い換えれば、「このテクストの「形式」は、絶対的尊敬を受ける権利を有する一種の人格的同一性のように現前し、かつ遂行される」。私が読む限りでは、ここでデリダカフカの物語の中に、法によって予め保証されている(合法的な、法の遵守としての)「触れ得なさ」とは異なる、自らに立法する行為としての「触れ得なさ」(倫理)を読もうとしている。(あるいは、「法」の中にすでに書き込まれているはずの倫理を読み出そうとしている。)そして、その区別は、「読解不可能性」にかかっている。
 デリダに拠れば、「読解不可能性」とは「対象指向上の曖昧さ」を意味しもする。その条件は、あるテクストの意味について、ある著者の最終的な意図や思考について、あらゆる仮説が無限に許されているということであり、テクストが自らを表示するその背後に、なにかしら秘密の意味を決定すべきではなく、決定すべき意味などないという点にある。「対象指向上の曖昧さ」ゆえに、言い換えれば「法」が禁じられているがゆえに、人は自由な決定を下すことが、自由な読解を示すことができる、だが、こうした「自由」は、法の中に入ることを自らに禁ずることによって取り消されるものでもある。取り消されるとは、たとえば、悪訳や改竄は、テクストの変形や加工は、「オリジナル」の名において裁かれ得るということであり、あるいはまた、もしカフカの『法の前に』というテクストについてなにかしら述べようと思うのであれば、私が先ほど呈示した失敬な要約ではなく、テクストを、そしてできることならオリジナルの(原語の)テクストを、変形したり手を加えたりすることなしに参照するのでなければならないということでもある。なぜならば、我々の経験を超える(経験し得ない)ような「法」の、その現前が禁止されているということこそが、そこでは誰もが「門番」であり「田舎の男」であるような、この物語についての、あるいはまた「一時代の文学に所属しているというだけにとどまらない」物語についての、物語=歴史を生むのであるから。
 だが、「読解不可能性」とは何か。(つづく)