ロザリンド・クラウス----批評の方法(21)

(つづき)
 オリジナリティとシミュラクルを巡っての議論は、クラウスが旧態依然とした美術界を批判するために依拠するのだと宣言した「ポスト構造主義」哲学に、なるほど、確かに見出すことができる。ここで採り上げるのは、ジャック・デリダの『先入見』----法の前に----』*1である。
 『先入見』----法の前に----』はフランツ・カフカ(1883〜1924)の小説『法の前に』の物語と構造を分析したテクストである。『法の前に」を分析するに当たってデリダが依拠している仮説とは、法の歴史と文学の歴史を一緒に考えることの必要性である、というのも、デリダに拠れば、文学は対象指向上の曖昧さによって、言語の行為遂行性*2がもつ立法的な力によって、現行の法を転覆させることができるのであり、それこそが文学の可能性なのであるから。文学なしに民主主義はなく、民主主義なしに文学はない、と、デリダは言う。(芸術や文藝一般から文学を区別するというデリダの仮説を検討することはここではしない。話を先に進める。)とは言え、「法」とは何か。
 ここで彼が法の歴史と文学の歴史を一緒に考えるために持ち込むコンテクストのひとつに、カント哲学における「法」がある。『先入見』----法の前に----』というテクストでは至る所でカント的な言い回しが援用され、『実践理性批判』を脱構築しようとしているのであるが、以下、カントの議論を簡潔に紹介しつつ予めおおよその見取り図を得ることにする。より細部にわたる議論については、後の読解の過程において必要に応じて、『実践理性批判』に言及することにする。
 カントに拠れば、範例から道徳性を派生させることはできない。なぜならば、今現前している範例が道徳性のモデルとしてふさわしいかどうかをいかにして知るのかという問題が残るからである。したがって、範例に道徳性の諸原則(理性がア・プリオリに投影するイデア)が先立たねばならない。イエスは範例に過ぎず、ただ神のみが最高善である。法が普遍的なものであるためには、法の普遍性があらゆる有限性を超える必要がある。カントがこだわっている道徳性の本質とは、同情や自愛といったパトローギッシュなものなしに、視野の狭さや自惚れや私利私欲なしに、あるいは賢い人と見られんがためのファッションに陥ることなしに、また自然的法則に流されることなしに(人間は自然的法則における存在でもあるから)、人間に対して道徳性を可能にするような「道徳的法則に対する純一な愛」、すなわち道徳的法則への尊敬にかかっているのである。人がそうした「純一な愛」に到達した暁には、「法則はもはや命令ではなくなり、また道徳性は主観的に神聖性に転化して、もはや徳ではなくなるだろう。」これはつまり、道徳と同一化した人間、天然道徳人間であり、道徳の天才である。そんな人間は決して可能ではないだろうがしかし、そうした「原型」を思い描くことなくして有限的存在である理性にとって道徳の発展は可能でない。
 カントにおいては、道徳的法則への尊敬の感情がモラルの有無を判定するための基準であるがゆえに、純粋に義務から発すること(「道徳的法則に対する純一な愛」)と単に見せかけだけの義務への順応(同情や自愛といったパトローギッシュなもの)は区別されねばならないし、その区別においてこそ、道徳性の本質はある。「我々はいかなる動機をも神の意志に帰することはできない」とカントは書いている。この意味での神への畏れなくしては、我々人間は自らが義務や責任を十分に果たしているのだという思いこみ(自惚れ)から逃れることはできないだろう。(自惚れや身びいきは理性の怠惰であるだろう。)純粋な義務と義務への順応というこの区別は、カントに拠れば「法則の精神を体現すること」と「単に法則の文字をなぞること」との区別に対応する。倫理的であることと合法的であることとは異なる、ということである。現行の法を批判する契機として、あるいは自らが道徳的法則に適っているのだという思いこみ(「道徳的狂熱」)に対する批判として、神に対する畏敬の念が要請されていることが分かる。*3
 ところで、ここでカントが法であるとか、神であるとか呼んでいるのは、それ自体範例であるはずの、すなわち感性的で有限的な存在である人間の手になるはずの「福音書」に書かれたそれである。デリダに拠れば、この点で『実践理性批判』には矛盾があるが、この矛盾が教えていることとは、範例とは目に見えないものの唯一の可視性であり、立法が問題であるとき、範例なしに済ませることは、有限な存在であればいかなるものであっても不可能であろうということだ。ミメーシスなしに、反覆による汚染なしに済ませることはできない。同様に、義務から発することと義務に順応することともまた、完全に分離しきれるものではない。仮にシミュラークル(模倣、擬態)の可能性、外的反復の可能性を廃棄すると、法そのもの、義務そのものの可能性すなわち再帰性が失われることになるだろう。
 だがむろん、デリダの議論は以上の批判に限定されるものではない。彼は、経験的な範例にのみ従うべきである(経験的で有限的な、相対的な正しさしかない)だとか、法などというものは無いのだといった結論に向かうわけではない。これから参照してゆくデリダの議論は、カント自らが述べた「我々はいかなる動機をも神の意志に帰することはできない」という命題を徹底し、「神」への畏敬の念を別の形に読み替えることで、『実践理性批判』の諸問題をより先鋭化するものであるように、私には思われる。「基準の不在こそが法であり」、今現前している範例が道徳性のモデルとしてふさわしいかどうかをいかにして知るのかというような理性に課せられた問題に終わりはない、おそらくはそれが、デリダの書いていることではないだろうか。ゆえに、デリダにとって「読解不可能性」(無限の読解可能性)と正義は不可分である。(正義は脱構築不可能であると、デリダは言う。)(つづく)

*1:『どのように判断するか  カントとフランス現代思想』所収 宇田川博訳 国文社 1990

*2:発言の行為性。ウソの不可能性。

*3:ジャック・デリダ『パッション』および、エマニュエル・カント『実践理性批判』双方を必ず参照されたい。