ロザリンド・クラウス----批評の方法(22)後

argfm2008-12-09

(つづき)
  デリダが指摘するところに拠れば、文学において個々の作品を「作品」として識別させるものは「枠」と「標題」(「指向的構造」)の差異である。たとえば、カフカの小説『審判』には『法の前に』と同じ内容を見つけることができ、つまりは「同じ内容がまったく違った作品を生起させている」ことを指摘し得るのであるが、このときこれら二つの作品を差異づけるものは、内容でも形式でもなく、枠と標題(指向対象性)*1である、と、デリダは言う。ここで、これら「枠」、「標題」(「指向的構造」)の関係とはどのようなものなのか、簡単に確認しておこう。枠とは、「作品」にその同一性の保証を与えるという実定的な法における機能(「作品」を不可侵・不可分のものとせよと命じる)を指すと同時に、ある「作品」を起源から切断するものでもある。つまり、枠[による切断]は、「指向対象の「正常な」システムに一種の混乱を導入する」のである。他方、指向対象性とは、たとえばタイトル(標題)の機能であり、間接的に、作品とその指向対象の同一化を可能にする。だが、枠によって「起源」(著者の人格、著者の最終的な意図・志向)から切断されているのだから、その指向対象性の指向対象‘性’は、指向された対象の身元保証となることはできない。フロイトを引用しつつ、デリダは以下のような一つの定義を示す。広まる噂、作者もなくオチもないが、避けがたく忘れがたいものであるような物語こそが文学の起源である。無意識同様いかなる現実の指標も存在しない文学において、「真理と、情動を備給された虚構とを相互に区別することはできない」(フロイト)。以上が、オリジナリティとシミュラクルについての考察から帰結する文学の本質的な「読解不可能性」を生み出す、枠と指向対象なき指向対象‘性’の相補的な構造である。(むろん、枠や指向対象性が文学作品を「作品」たらしめるために必要であるとしても、そのことが作品の価値を保証するわけではないことは、デリダも承知している。それらは「作品」に自分自身の法を作る力を与えるのではあるが、しかし、そのことによって、他の「作品」、他の「法」の前に「出頭」させられるのであるから。だが、ゆえに、枠と指向対象性の差異による作品の同一性という条件を認めるのでなければ、文学作品が文学なる領域への帰属に甘んずることなくその領域を変形するというような、文学作品が担う「立法的な力」に基づく働きかけそのものを指摘することもできないだろう。余談だが、ゆえに、「Xのあとに芸術は可能か」といった問題が問題となり得るのでもある。)
 ここで言われている枠と指向対象性の関係についての理解を容易にするため、デリダの美術論である『盲者の記憶』の中から一例を引くことにする。画家ファンタン=ラトゥール(1836〜1904)によるデッサン『自画像』(これがここで言及されるデッサンの標題である)について、デリダは次のように書いている。「たとえファンタン=ラトゥールが素描している最中の自分を素描していることが確かでも、作品だけを観察することによっては、彼が自分を素描している自分を示しているのか、それとも他のものを----あるいはさらに、他者としての自分自身を----素描している自分を示しているのかはけっして知られないだろう。」つまり、自画像として‘描かれた’視線の向かう宛先が決定不可能であるからには、この素描がラトゥール(「私」)を描いたものであるのか、それとも自画像なるものの範例(「自伝についてのテクスト」)であるのかを決定することはできない、ということである。したがって、「枠と指向対象なき指向対象‘性’の相補的な構造」は、その指向対象性の曖昧さによって、このもの(他者に代わってもらうことのできない行為の一回性ないし出来事・受苦)と他のもの(規範・命令を感性抜きに反復する機械的装置すなわち反復可能性)の間の決定不可能性を示す。つまり、この構造は、その反復可能な遍在性と経験的な出来事との交叉において(それらがあるとしたとき)、われわれが作品に対してあるリアリティを--たとえば、ここに書かれている‘この’ことは‘この’ことではなくあのことかも知れない、自分のことかも知れない、というような--感じるための条件となる。ゆえに、「文学は常に自分が為すこと以上のものを言わんと」するのである。しつこいがくりかえせば、だがしかし、このことは「証言」にアクセスする可能性、チャンスであるにすぎない。こうした構造が作品の価値を保証するわけでもなければ、作品同士の間にわれわれが仮設する不可逆的な変化を決定するわけでもない。したがって、デリダの論説によってはなぜこの作品について語らねばならないのかという問いに答えることができないという批判があるとするなら、そうした批判はデリダの論説に向けられる限りは不当であるように思われる。というのも、そもそもこうした問いが発せられることになる条件および、そうした問いを処理するために執らねばならない手続きを、デリダは文学の制度として分析しているのであるから。デリダに対して私なりに考えている批判は、後述するように、別のところにある。
 ところで、以上の相補的構造は狭義の文学に限らず、作品なるもの一般に妥当する。たとえばロザリンド・クラウスによる『オリジナリティと反復』が依拠したシミュラークルの理論とは一見、こうした決定不能性に基づくものであったようにも見える。なるほどデリダは次のようにも言っており、それはクラウスが主張するシミュレーショニスムの論理によく似てもいる。すなわち、私が何かについて語るとき、私が何かについて語っているのか、それとも一つの範例を与えているのか、決定することが不可能であるとき、文学は始まっている、と。範例性の活用が、際限のない享受、終わりのない解釈を呼び起こす。この論理をクラウスにおいて読み替えるなら、たとえばエドワード・ウェストンの剽窃であるシェリー・レヴィン(1947〜)の写真作品は、被写体についての写真であるのか、被写体を収めた写真についての写真であるのかが決定不可能であることによって、「際限のない享受」、「終わりのない解釈を呼び起こす」のだということになるのかも知れない。もちろん、このような援用はデリダの議論からすれば不当である。言うまでもなく、ここではオリジナルとコピーという階層が、ウェストンとレヴィンというように、はっきり区別可能であるからだ。だが、クラウスはおおよそのところ、そのように考えているのである。クラウスは『アヴァンギャルドのオリジナリティ』の中で次のように書いている。


「レヴィンが使う媒体は剽窃写真であり、例えば彼女の一連の写真は、エドワード・ウェストンが撮った息子のニールのイメージを借用したり、あるいは単純にそれを複写することで成り立っており、これはウェストンの著作権を侵す行為である。しかしウェストンの「オリジナル」は、これまでにも指摘されてきたように、すでに他人が提供するもろもろのモデルから借用されたものなのである。例えばそれらは、ずっと昔に私たちの文化の中で男性の裸体トルソというものを複製し複数化してきたギリシャのクーロス(青年裸体像)のあの長大な連続によって与えられているのである。ウェストンのプリントの表面の言わば手前で行われているレヴィンの剽窃行為は、このプリントを背後から、今度はそれが盗んだ、それ自体その再生産である一連のモデルへ向けて開く。」


 以上の解説に続けてクラウスが参照する理論はデリダではない、バルトである。引用されているのは次のような部分である。「描写するとは、コードの絨毯を広げることであり、言語活動から指向対象へではなく、一つのコードから別のコードへと指向させることである。」こうした引用によってクラウスが言いたいのは、つまり、かくして作品はパッケージングされた諸々の複製(「紋切り型」)から成る表層の展示場となったのだということであり、批評(彼女の言う「パラ文学」)とは、こうした「紋切り型」からなる文化の貯蔵庫(記憶)を次から次へと渡り歩いてゆくことなのだ、ということである。すなわち、作品は、「際限のない享受」、「終わりのない解釈を呼び起こす」のである。だが、ここに批評が生まれるかどうかは疑わしい。
 ところで、このバルトの引用は、『アヴァンギャルドのオリジナリティ』と『ポスト構造主義とパラ文学』という二つの異なるテクストにそれぞれ見出されるのであるが、『ポスト構造主義とパラ文学』において、クラウスによってバルトとデリダが混同されていたことを鑑みるなら、そして冒頭に宣言された彼女の「方法論」を鑑みるなら、彼女の脳の中で以上の主張がすべてオリジナリティとシミュラクルの対から考えられていただろうと結論したところで勇み足ではあるまい。ゆえに、クラウスの論説を、哲学におけるオリジナリティとシミュラクルの問題圏から検討することは正当であるだろう。そして、哲学におけるオリジナリティとシミュラクルの問題圏というコンテクストから接近するならば、彼女の論説の矛盾を明確に見て取ることができるだろう。*2オリジナリティについての議論を大略見渡した後言えることとは、彼女の誤りは、オリジナリティとシミュラクルの対を単に権威・権益を問い詰めるための武器(彼女の文脈ではオリジナリティ批判)としか考えなかった点にあり、その武器の威力を、彼女が「読解可能性」と「読解不可能性」を対立させ続けることによって得られると考えている点にある、ということである。だからこそ彼女の書くものからは、作品のリアリティや解釈についての可能性が、すなわち作品の‘遍在性’が、と同時に作品および作品の読解による批判の可能性が、あらゆる契機において失われるのではないだろうか。
 「コード化されていない出来事の無言の現前」を、作品において、それが現実に存在する(した)か否かのみが重要であるとするような議論に意味はない。作品のリアリティを--このことについてこれから書くつもりだけれども--どのように考えるかが肝心である。そもそも、作品においては、いかなる現実の指標も奪われているのであるから。(だが、こうしたことは恐ろしく反動的な考えと混同されかねない。語るには慎重さを欠いてはならないことのように思われる。)私にはもはやこれ以上、アートにおけるシミュラクル(ないしネオ・ポップ)の理論に付き従う必要はないと思われる。だが、その「起源」である哲学を参照することで議論を終わらせることはできないし、そもそもそのことが目的でもない。予告どおり、デリダの論説について検討しなければならない。だが、タイトルを変えることにしよう。(終)

*1:ここで「枠」と「指向対象性」と呼ばれているものは、カントの言う「目的なき合目的性」を脱構築したものと解することもできるように思われる。つまり、自然に起源を求めるのでもなく、主観における表象でもないような、対象の形式の「目的なき合目的性」である。

*2:これまで指摘してきた様々な矛盾の他に、わかりやすい例として挙げるならば、たとえば、「ホンモノ」の、オリジナルのシェリー・レヴィンというパラドックスがある。「ホンモノの作家」という言葉の持つ無意味さをも考えられたい。