経験したことのないものを経験することについて(2)

argfm2008-12-15

(つづき)
 文学作品を読むことは限りないストレスであるとデリダが書くとき、そこでは作品はつねに乗り越えられるべきシミュラークルであり疑似餌であると位置づけられている。だが、何に向けて乗り越えられるべきなのか、「証言」に向けて、「他なるもの」に向けてである。読解に終わりはない。「他なるもの」は作品に「痕跡」として内在し、内なる異他触発として肯定され、分析者や「相続者」といった読者達の分析や総合を無限に挑発する。内在する他者は、分析や総合を無限に挑発する(分析家に話させる)が、それらに絶対的に抵抗する(「起源」は決定不可能である)。この意味で、作品は、「不死の者として死んでいる」のである。ここで言われているのは、出来事を経験する主体と、その出来事を「証言」するための読解可能なテクストを作り出す主体とは、たとえ同じ一人の「私」であってでさえ、異なる(「私」は「私」の代わりになることはできない--「語り手の署名には日付が付されている」--)、ということであり、これらの間の隔たりを隔てたままに連結する(「離接的連結」)場こそが作品であるということだ。デリダは次のように書いている。「証言行為は自らの言語を創作しなければならず、共通の尺度では測れない、ある行為遂行性において自らを形成しなければならない以上、詩作的なのです。」「離接的連結」における、異なってはいるが‘同一’な二つの時間(因果的連鎖)は、一つの連続した論理的一貫性の中で繋がっているのでないかぎりにおいて、一方が他方に先行すると言うことはできない。いずれがいずれを引用するのでもない。ゆえに作品において「他なるもの」を具体的に指し示すことはできず、すなわちそれは何も保証せず、何も記述せず、ただ「ありうる」ものとなる。言い換えれば、「それはかつてあった」(〈適合=一致〉としての真理)ということの経験ではなく、‘それは起こりうる’ということの経験となる。
 「離接的連結」こそ、デリダが様々な文学作品(絵画についてもまた)においてなす具体的な分析に多様さを与えているものである。「離接的連接」とは、合法的な枠に先だって、作品を個々のものとして識別させる条件であるところの「枠」と「指向対象なき指向対象性」との間の隔たりと連結を演じるものであるがゆえに、「文学」から、言い換えれば合法的な枠からはみ出す。文学作品を文学作品たらしむる「離接的連結」という条件は、およそ「知」(〈適合=一致〉としての真理)に還元し得ない作品なるもの一般にあてはまる。我々がそれを‘真実’と感じたとしても、しかし、その‘真実’とは、裁判の物的証拠にはなり得ないような‘真実’である。「離接的連結」の非自己同一性すなわち「指向対象なき指向対象‘性’」という作品の条件は、もしこれを認めるならば、我々が抱え込んでいる美術史上の美術作品なるものの定義に影響を及ぼさずにはいないのかも知れない。(たとえば、そのとき、歴史的資料と範例性との境界を新たに考え直すことが必要とされるように思われる。)とは言え、この問いに答えることがここでの目的ではない。「離接的連結」が、作品を読解可能であると同時に読解不可能であるような「贈与」とする条件であるならば、「なぜ、作者ではない誰かが作者ではない他者に向けてこれを送り届ける必要があるのか」という問いに答えるために参照されるべきものは、出来事と行為遂行性の階層差なき「離接的連結」である。
 ところで、以上の「離接的連結」について、大筋において私は異議を差し挟む理由を見出せない。問題は、だが、作品を不可分・不可侵なものとするのは、デリダに拠ればやはり「枠」しかないのではないか、という点にある。デリダが文学を政治との密接な関係にある問題として考えるとき、ゆえに、作品における出来事の唯一性が、たとえその現前があり得ないとされているとしても、特権化されてはいないだろうか。デリダにおいて作品が乗り越えられるべきものとされるのは、そうした唯一性に呼びかけられることによってなのだから。こうした問いを、私は、「読解可能性」がデリダにおいては文学(狭義の)ないし言語から考えられているという点において、検討する必要があるように思われる。(つづく)←でも少し休みます


画像 熊谷守一『陽の死んだ日』(1928);蛇足だが念のため付言しておけば、我が子の死を描いたこの絵は、完成することなく放棄された。熊谷によれば、「絵を描こうとしている」自分に嫌気がさしたためである。