柳家小三治一門会

柳家小三治一門会』を見た。出演は柳家ろべえ(「家ほめ」)、柳亭燕路(「寝床」)、柳家福治(「墓見」)、柳家小三治(「厩火事」)。中学生の頃、いっとき私は落語にはまっていた。ほとんどのラジオ放送をエアチェックし、テレビで寄席が放送される時にはほとんど見た。テントウムシの形をしたタイマーを使ってできるかぎり録音した。図書館でレコードもよく借りた。講談社が文庫で出していた落語のネタ本も持っていた。誰が誰の師匠であるといった噺家の系統図(?)が記されたものも、どうやって手に入れたのか忘れたがちょっとした宝物のようにして持っていた。(明石家さんま噺家なのだということをそのとき初めて知った。)寄席に行くほどの小遣いはもらえなかったから、親にせがんで連れて行ってもらった。4,5回ほど行ったように思う。
 きっかけは、病気をして学校を少しばかり長いこと休んでいた時に父が贈ってくれた小三治のテープだった。落語は好きでなかったが、ハマった。思い出すほどに笑ってしまうという、いわゆる「可笑しみ」という感覚を経験したのはこれが初めてだったのではないか。今でも実家のどこかをひっくり返せば出てくるかもしれない、『時そば』と『湯屋番』の収録されたテープだ。そうこうするうち落語家になりたいと思うようになったが、周囲からの背筋の凍るような黙殺に会い、断念した。高々と掲げた軍旗を誰も見ないように見ないようにとしているのでシズシズと引っ込めた、そんな感じだ。高校受験を迎える冬頃には私の落語遍歴は終わっていた。
 それっきり落語には縁がなかったが、先日カミさんに連れられてとある寄席を見る機会があった。友人が余った切符を譲ってくれたのだという。そこに出ていた柳家喬太郎を一目見てびっくりした。私より四つか五つほど年上なのだが*1すごい噺家がいたものだと感動してしまい、そこから落語への興味が再び湧いてきたのである。で、近所の区民会館に小三治が来ると知って出かけることにしたのだ。
 落語というのはだいたい、聞く方もほとんどが咄を知っている。オチもたいしたものではない。(新作でなければ)最初っからネタバレしているのが落語である。古典芸能は一般的にそういうものかも知れない。したがって、落語はどれだけコンテクストを作り込めるかというところが勝負だ、と私は思っている。事件に文章を書き込むのではない、逆の作業である。もちろん、それだけで名人以上の名人芸などが語れるはずがないとは私も思うけれども、まず要件としてあるように思う。(柳家小三治の『落語家論』*2には、そういったコンテクストへのこだわりがそちこちに書かれている。)下手な落語は見る方に視覚的な想像力を要求する。下手な落語は自分で映像を補わないと聞くに堪えないものである。だが、上手い落語は情景が浮かぶ。男が女になり、一人が二人に三人になり、高座が長屋に蕎麦屋になる。情景の背景すら感じられる。(イメージとは、音や身振り、視覚的な色や形には還元しきれないものだ、そう、画家である私は考えさせられる。)だから笑える。私は落語の批評をする資格が自分にあるとは思えないのでやらないが、小三治の高座では、一気の爆笑というよりも(それがないわけではない)、ツボにハマったというような、こらえるような客の笑い声が噺のリズムとはズレて、また客全体の空気とは外れたところで聞こえてくる。空気の読めない笑い声が頻繁に起こるのだ。20数年ぶりに小三治を聞いたけれど、やっぱりすごい、と思った。ああ、芸にこだわりたいなあ、とつくづく思った。


 今回のはブログっぽかったな。

*1:6つ年上だった。

*2:筑摩書房 2007