ロザリンド・クラウス----批評の方法(7)

argfm2008-06-27

 なぜ「写真」なのか、ロザリンド・クラウスは次のように書いている。


シュルレアリスムの写真は、すべての写真が賦与されている現実との特別な結びつきを巧みに利用している。というのも写真は、現実的なものから取られた刻印もしくは転写だからである。それは、指紋や足跡や冷たいグラスがテーブルに残す水の輪と類似の仕方で、それが指し示す世界の中のその事物に因果的に結びついた、光化学的に加工処理された痕跡なのである。写真というものはそれ故、絵画や彫刻やドローイングから、属的に区別される。もろもろのイメージの系統樹の中で写真は、掌紋やデス・マスクやトリノの聖骸布、あるいは海辺のカモメの足跡のより近くにある。というのも、技術的・記号論的に言って、ドローイングや絵画はイコン*1であるのに対し、写真は指標(インデックス)であるからだ。」


 ベンヤミンが写真を「犯行現場」と呼ぶのと同様、クラウスにとって写真とは「それが指し示す世界の中のその事物に因果的に結びついた、光化学的に加工処理された痕跡」であり、「指標」である。ここで彼女が「指標」の語を用いるのは、哲学者C・S・パース(1839〜1914)を参照してのことである。*2パースは写真を指標記号の事例として挙げており、その理由について、「写真が一点一点物理的に自然と対応するよう強いられるという状況のもとで作られた」からだと書いている。*3クラウスによるパースの引用はパースに忠実であると言ってよい。彼女によれば、「指標」こそが、記号に「現実との特別な結びつき」を保証することによって、「絵画やドローイング」と「写真」を区別し、記号を「記号としての自然」へと「総合」するのである以上、『指標論』および『シュルレアリスムの写真的条件』において「指標」は自らの主張すべてがかけられた重要な概念である。だが、ここでクラウスの議論は写真を一つの範例として議論の中心に据えるにとどまっており、『オリジナリティと反復』全編においてさえ、「指標」とは何かということが論理的に説明されることはない。議論の展開を望むならば、そもそも「指標」とは何なのかを確認しておく必要がある。ややこしすぎるパースの哲学そのものを議論するには長文を要するうえ、多くの時間を割くことは芸術を論じるという当ブログの目的から外れもする、この判断が正当化しうるものでないことは承知の上で、解説はおおよその意義を捉えることを旨とし、簡単にとどめる。
 指標記号はパースの哲学の中でどのような位置を占めているのだろうか。パースによれば、形而上学は「形式論理学の精密に正確で完全な体系のもとでしか理解できない」*4のであり、ゆえに、哲学が正しい推論のために真に扱うべきは思考の科学たる論理学であるということになる。以上の目的において、パースによって構想された形式論理学(「関係項の論理学」)とはすなわち記号の研究に他ならない。パースの論理学では、記号は、「一次性」・「二次性」・「三次性」として分類された三つのカテゴリーから成っており、それらがあらゆる命題を可能にするとされる。それぞれを一般化するなら、「質」*5・「作用-反作用」*6・「表象」*7と言い換えられる。これら三つのカテゴリーを用いて、記号は10個の観点から分割される。指標記号はその中の一つ、「記号とその力動的対象との関係による」分割(「類似記号」、「指標記号」、「象徴記号」から成る分割)に属する。つまり、記号とその対象との関係が本質的に何に依存するかという観点に基づく分類に属する。ここで「力動的対象」とは、「実際に効力を持ってはいるが‘直接現前していない対象’」を意味する(強調筆者)。*8そこにおいて指標記号は、第二性としての位置を、記号と対象との現実的な関係としての位置を占めている。以上がパースの論理学における指標記号の位置づけである。
 指標に関するパースの議論をとりあえず大雑把に捉えるとすれば、パースが「指標」として記述しようとする記号の機能とは、能動と受動との力学的作用に基づいた、盲目的な、「理屈抜きの強制」による二項の結合を基礎とする指し示しである。*9パースは次のように書いている。「対象との類似性や類比によるのでもなく、また対象がたまたま持っている一般的な特性との連合によるのでもなく、一方では個体的な対象と、他方ではその人にとってそれが記号として役立つ人の感覚や記憶との(空間的なものを含む)力動的な結合関係を持っていることによって、その対象を指示するところの記号あるいは表意体のこと」*10。たとえば、大きな落雷は、雷の落ちた場所で何が起こったのかを正確に知ることはできなくとも、何か大変なこと(火事や事故)が起こったであろうことを指し示す指標記号となり得る。歩行者に注意を促すために鳴らされた自動車のクラクションは、近い未来に起こるであろう衝突事故という必然において、歩行者に対し自動車を指し示すがゆえに指標記号である。症状、兆候などは指標記号である。指標記号は必ずしも物質的因果関係における対象そのものの謂ではなく、「個々の特定のものは表さない代数の普通の文字は指標記号であり、幾何学の図形に付けられているA、B、Cなどの文字」も指標記号である。「これ」とか「あれ」等の指示代名詞もまた、指標記号である。絵画のタイトルはパースに拠れば指標記号であり、写真のキャプションもまた指標記号である。誤解しやすいが、ここでパースが言っているのは、絵画のタイトルが絵画の内容を指し示すという意味ではなく(その場合は「第三性」すなわち解釈が入ってくることになる)、絵画のタイトルが‘この絵画の’タイトルであると理屈抜きに受け取られるという指し示しの事実を指す。
 指標記号とは、「その対象が除かれると直ぐにそれを記号にしている特性を失ってしまうが、解釈項がなくてもその特性を失わないような記号」である。対象が未来のものであれ過去のものであれ、二項間の対という関係において「現存性を含む」というこの特性が、指標記号の意味であり、彼が構想する論理学における指標記号の役割である。「指標記号として役立つ記号を使用しなければ事実的な事柄は記述することができない」、とパースは書く。もし論理学において指標記号がなければ、ある事実を指し示すことができず、一つの言明ないし命題はある一般的観念の存在を示すだけだということになるだろう。たとえば、「火事だ!」という文は具体的な時間的空間的位置へと向けられた指し示しを伴わなければ、‘火事(という観念ないし事象)が存在する’と述べているだけで「何の情報も与えないことになるだろう」。
 指標記号がどのようなものであり得ないのかを知ることは、指標記号のなんたるかを知るために役に立つ。パースの論理学において、三つに分類された諸記号はそれぞれ低次の前項を含み込んでより高次の第三性へと向かうよう配置されている。つまり、第三性は第二性と第一性を含み、第二性は第一性を含むのである。したがって第二性である指標記号は、第三性としての推論や論証、解釈といった理性の働きを伴わないのであるからたとえ文であっても主張ではなく、あえて指標記号を主張として解釈するなら、それは命令や感嘆以外のものではない。指標記号は‘力’であり、かつ、他の様々な力との関係によって規定されている。それはいかなる意味においても‘法’ではなく、自然法則でも、自然法でもない。*11ここで、パースの指標記号についての説明は一度おいておくことにして、クラウスに戻ろう。(つづく)


パース用語集 →http://www.helsinki.fi/science/commens/dictionary.html

*1:ここでクラウスの言う「イコン」とは、『指標論2』によれば、「類似の効果によって意味を成り立たせる記号」のことである。

*2:クラウスはパースの名を『シュルレアリスムの写真的条件』の中の上記引用箇所においては出してはいないが、『指標論2』において、ほぼ引用箇所と同様の文に隣接させて、絵画と写真の区別を正当化する論拠としてパースによる類似と指標の区別を引用している。

*3:『パース著作集2』勁草書房 内田種臣訳 1986 以下『パース2』と略記

*4:『連続性の哲学』 岩波文庫 伊藤邦武編訳 2001 以下『連哲』と略記

*5:「それはあるものがそれ自体で、それ以外のものには無関係に存在しているような存在の様相である。したがって第一性は、他に何も存在しえなくても、これまで何も存在しなかったとしても、あるいは何も存在しえなくても、いかなる変化も生じないような存在の様相である。」 〜『連哲』

*6:「互いに切断され、分離した二つの主体のうちにあって、それぞれを他と組み合わせるところのものである。その組み合わせは、私の精神によってとか、他の媒介的な精神や状況にとってとか、それらによってというのではなく、二つの主体自体において生じる組み合わせである。したがって、それは他に何ものも存在しなくても、これまで何も存在しなかったとしても、あるいは何も存在しえなくても、同じままであるような組み合わせである。」「対であることこそ第二性そのものである。それは媒介されたものではないし、他によって引き起こされたものでもない。したがってそれは知解可能な本性を持つわけではなく、完全に盲目的なものである。それがおのおのの主体に現れる局面にはいかなる理性的根拠を付与することもできない。」 〜『連哲』 

*7:「あらゆる法則、一般的規則は、一つの事実に別の事実を引き起こさせる以上、第三性である。」「それは主体に生来具わった変容の理由とも言うべきものである。」 〜『連哲』

*8:『パース2』

*9::より厳密に言えば、これは指標記号の発生についての超越論的考察であって、指標記号をそれとして認めるためには、何かを指標記号‘として’認識する主体がなければならない。そのための条件とは、パースによれば、予めコンテクストが共有されていること、すなわち第三性による媒介である。たとえば、弾丸の穴は射撃というものを知らない人にとっては穴でしかない、事実、軍事訓練施設の周辺に住む動物たちは銃声を恐れないと言われる、「しかし、それを射撃のせいにする感覚をだれかが持っていようがいまいが、そこに穴はある」。[〜『パース2』] 

*10:『パース2』

*11:先日刊行された『ディスポジション』における議論は、おそらくこうした認識を前提とするものだろう。今後の議論の展開に期待したい。http://liv-well.org/disposition/