パレルゴン(19)

argfm2008-04-07

(つづき)
 「あるがまま」とは何か。先に三つの思索様式を斥けたハイデガーは、そうした後、「あるがまま」を思索することの一つの事例を自ら示す。どのようにして「あるがまま」を目指して思索するか、「モノ」は難しいから道具から考えようというのが、ハイデガーの策である。そこから、モノと芸術作品についても、なにかわかるかも知れない。少し滑稽に聞こえるが、道具の本質(「あるがまま」)を考えることから着手しようとハイデガーが書くとき、その理由はそっちの方が易しそうだからという他にはない。だがこの些細で恣意的な決定は重大であって、というのもその後、見かけの上では芸術作品が思索の対象となっている場合においても、ハイデガーがモノと芸術作品へと再び戻ってくることはないのである。モノと芸術作品は道具の本質を考える過程に含まれ、そこに包み込まれる。つまり、『芸術作品の根源』は、本質的に「道具の本質的な存在」についての論考なのであり、「あるがまま」はそこにおいてしか語られない。シャピロがハイデガーを批判するきっかけとなった点とは、デリダによるならまさにその点、ハイデガーゴッホによって描かれた他の絵の差異を見ることなく、全てみな同じ真理へと還元できるかのように語っているという点であった。その通りであり、ハイデガーにとって重要なのは作品ではなく、道具と世界との関係なのである。だが、ハイデガーが「あるがまま」を思索するためには、確かに芸術作品が必要とされてはいるのである。
 いったいなぜ道具の本質(「あるがまま」)を思索するために芸術作品が必要なのだろうか。ハイデガーによれば、道具の「あるがまま」を経験するためには、「道具をいかなる哲学的な理論もなしに単に叙述する」必要がある。ここで、道具の「あるがまま」すなわち「道具が真実のところなんであるのか」を経験するために、件のゴッホの絵画が参照されることになる。ハイデガーは次のように書いている。「直接的な叙述が肝要なのだから、具体的な説明を容易にすることは有益であるかもしれない。このような助け船には絵画的な描写で足りる。われわれはそのためにヴァン・ゴッホのよく知られた絵画を選ぼう」。彼が絵画を参照する理由として示すのはこれだけであり、それは答えになっていない。したがって、ここで絵画、ましてや芸術作品が登場する理由は全くないと言ってよい。(その後、「ゴッホのよくしられた絵画」は我々読者になんの断りもなしに芸術作品へと変貌している)。にもかかわらず、その参照は彼の論説において必要不可欠ではあり、それなくしては、「あるがまま」は思索され得ないし、価値あるものともならないだろう。というのも、「あるがまま」に価値を、根源的なモノとしての価値を与えているのは、覆いをはぎ取るという図式において以外ないからであり、この覆いをはぎ取るという図式を可能にするのが、描かれた道具(すなわちおのれの固有の有用性を失って後まだ存在する道具)と芸術作品(なぜかここでは絵画が芸術作品を代表している)との関係に他ならないからである。「下にあるもの」「覆われてあるもの」は、それを「覆うもの」がなければ、「よりいっそう」という優越的価値を、「下にあること」という相貌を得ることができない。この「思索様式」は、『返却』が指摘するところによれば、ハイデガーが三つの思索様式を批判するために引用していたギリシァ人の哲学に対する彼自身による価値評価の中に既に現れている。(つづく)


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上記リンク先が切れたので改めて別のリンク先 ブログ『はろるど・わーど』さん(美術関係の記事が充実してます!)
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